第17回口頭弁論傍聴記 証人板垣氏 1


まず、第17回口頭弁論傍聴記冒頭において、社会学歴史学の専門家である同志社大学教員である板垣さんの「意見書」を掲載するとしたが、これは加筆・修正して何らかの形で公表となる模様である。よって当ブログは、傍聴記に徹して裁判模様を記す事とした。
この間、間延びした事と予定変更する事をお詫びしたい。
今回は、板垣氏の証人尋問を2回に渡り掲載した後「まとめ」を掲載する予定である。






原告側尋問

朝鮮学校について


◆(証拠物 板垣氏提出「意見書」を示す)まず、朝鮮学校の存在と運営について, 運動という面が非常に大きいというふうに書かれているが、それはどういう意味か。
幾つかの意見合いをそこに込めているが、民族教育というのを進めていく際に、それは制度的に保障されているものではない。時には弾圧もあり得るような状況で、それを維持しようとしたときには、行政に働き掛けたり, 人々を動員したり、いろんな運動というプロセスを経てこないと、ここまでやってこられなかったというような意味合いが一つある。もう一つは、学校運営が大変な中で、いろんな人たちが走り回って学校運営をしている。 ボランティアをしたり、あるいは場合によっては寄附をしたりしながらいろんな人たちが動いてきたというような意味合いを込めて、連動という言葉を使っている。

◆(証拠物を示す)これは、先生のゼミで作られた研究報告書か。
そうだ。社会調査実習の報告書だ。

◆学校に関わるアンペイドワーク等を非常に支えにしているという話があるが、 それは運動という面と関わっているということか。
そうだ。 アンペイドワークというのは、対価が支払われていない活動というような意味合いなので、ボランティアを含め、学校の教職員は給料をもらっていても給料以上にいろいろ働く姿も含め、保護者たちの動き、同胞の動き、そういうのを含めて、アンペイドワークという概念だ。 それは、かなりこの運動という事と重なっていると思う。

◆「朝鮮学校社会学的研究 目次」に、「学校で働く人たち」というのが書かれているが、これは先生方の調査か。
そうだ。

◆それから、「オモニと学校」ということで、非常にたくさんページが割かれているが、これは、オモニ会、オモニが、学校を支えるアンペイドワーク運動をしてきたということが聞き取られているという事か。
そうだ。 お子さんたちも頑張っているが、やはりオモニたちの動きが非常に大きいということだ。

◆オモニの話は先ほど聞いたが、財政面では、バザーをしたり、そういうことをされていたということか。
そうだ。 バザーをしたり、或いはキムチの注文販売をしたり、いろんなことを財政面で支えている。

◆維持が運動に依拠してきたという話をしたが、それは例えばどういうものがあるのか。
経営とかではなくて、例えば通学定期券とかそういったものは自動的に朝鮮学校に同じように適用されてきたものではなくて、陳情したり、いろんな動きの中で達成されてきたものだ。 それから大学入学資格なんかも、ちょっと今はいびつな形にはなっているが認められているのも、働き掛けの産物だし、そういう形で学技として存立させるために様々な運動があったという事だ。

◆意見書には、教育内容自体の歴史性が随分書かれており、その時々の在日の状況に合わせて教育内容が変化しているというふうに書かれている。そのことについて聞くが、まず、現在ある朝鮮学校の前身というものは、どういう形であったのか。
意見書においては2種類のことを書いているが、 一つは戦前のものだ。 戦前の夜学とか、書堂とか、そういうものだ。もう一つは、戦後間もなくできた国話講習所というふうに総称されるそういう教育施設だ。

◆そういう組織、学校の前身となるようなものは、誰が作ったというふうに認識しているのか。
戦前の夜学は、統一 した組織が何とかということではなく、例えば京都では、西陣西陣、桂は桂みたいな感じで、労働団体とか社会団体とか、そういったところが作って、間もなく潰されるが、戦後間もなくは、統一的な組織がないまま始まって、その後は、いわゆる在日本朝鮮人連盟が束ねていく形になる。

◆最初、多くは自主的な学校だったということでいいか。
そうだ。

◆統一した教科書とかも、もちろん, なかったわけだ。
当時は、本当に、いろんな多種多様なものを作っていた。

◆そういうふうに随分たくさんできたというふうに聞いているが、例えば京都の中では何校ぐらいできていたか。
ある調査では28という数字もあり、もう一つ別の数字だと38、9ぐらいの数字もあって、かなりあちこちにあった。

◆そういうふうにたくさん国語講習所ができた原因というのは何なのか。
その45年直前の時期というのは、いわゆる皇民化の教育の時代であり、朝鮮が日本から解放されて、もうそんなのを受ける必要はなくなったということで、日本小学校から、どばっと、みんな辞めた。 それで、辞めたといっても教育を受けない訳にもいかないし、それから、多くのかなりの人数が朝鮮半島に帰っていったと。その中で、朝鮮語も喋れないと或いは使えないと、しょうがないと、言葉を学んでいくということなのだ。 だから、それまでできなかった教育を取り戻すというような意見合いが非常にそこに詰められていたと思う。

◆それまでできなかった教育というのは、皇民化教育の結果という事か。他に、帰国の意思もあったということか。この当時、帰国をされようとしている方は、どの程度おられたという調査報告はあるのか。
象徴的な調査だが、1946年3月に、連合軍が計画輸送をするために在日朝鮮人が登録をした。それで64万人が登録をして, そのうち51万だったと思うが、 約8割が帰国を希望するという数字が残っている。

◆今回問題になっている、第一初級学校の前身も、やはり戦後直後にできたという事か。
記録によれば46年だ。

◆どういう形で始まったのか。
第一初級の前身に当たる学校は、今は統合したが、陶化小学校の部屋を借りた形でスタートした。

◆この頃の教育の内容というのはどういうものだったか、先生が調査された範囲で教えてほしい。
朝鮮語を中心にした、いわゆる普通教育だ。 国語、算数、理科、社会というような、そういう普通教育だ。

◆先ほどの64万人中51万人が帰国の登録をしたのは社会的状況の反映だというふうに考えているのか。
帰っても困らないようにというのはもちろん入っていたと思う。

◆登録された方は, 一体どの程度帰国したのか。
たしか8万ぐらいだったと思う。 その連合軍の登録の中からという事だが。

◆51万中8万ということで、随分少ない数字だと思うのだが、どうして帰らなかったかという事に何か調査なり見解なりあるか。
事情はいろいろだが、当時、連合軍は、出身が南の人は南に帰る、北の人は北に帰るという方針だった。 そういう中で南に帰ろうとしても,ソウルを中心に人が大量に引き上げてきている状況で、定着する場所とか仕事というのも非常に難しくなっていた。一方で、じゃあ、日本で集めた財産を持って何とか祖国でやろうというときにも、持ち帰り制限があり、財産とか、手回り品も含めてあり、そういう中でどうやって暮らすのかと。それから、南北分断状況の中で、政情もはっきりしないという中で、もうちょっと落ち着いてからというところで、躊躇したという人が多かったのではと思う。

朝鮮戦争は50年から53年の停戦までということか。
 そうだ。

◆そういう政治状況の中ということか。
 そうだ。

◆1955年には総連が設立される。
 そうだ。

◆総連というのは、どういう団体か。
在日本朝鮮人総連合会だ。1955年にできて、さっき言った朝連は45年からで、49年に一回強制的に解散させられ、一回断絶があって、その後、51年に民戦と言われる組織が出来上がるが、 在日朝鮮統一民主戦線、この団体が一応直接の前身に当たる。それで、この民戦からの脱皮という形で総連ができて, そのときの一つの大きな柱というのは、日本の民主化とか日本の体制がどうかというところに参画するのではなくて、祖国の統一とか建設というところに総結集するという、朝鮮民主主義人民共和国に総結集するという言い方を当時しているが、そっちに路線転換をする。だから、内政不干渉という言い方をする中で、
日本の政治、日本人のための政治というのは、やはり日本人が考えることだというような、そういう原則の中でスタートしたものだ。

◆その中で、在日朝鮮人はどういうふうに位置付けられていたのか。
在外公民と言っていた。

◆内政不干渉ということだが、権利獲得運動という面ではどうか。
もちろん、日本に住む朝鮮人の権利の問題に関しては, いろいろと権利擁護運動というのをずっとやってきている。

◆この頃の在日朝鮮人巡る帰国の状況というのはどういうふうになっていたのか。
全体的には停滞をしているということになるわけだが、58年から帰国運動というのが始まるというのがある。

◆1958年に帰国運動が始まって、それは民衆の中から始まったというふうに考えていいのか。
北朝鮮の方から呼び掛けがあり、迎え入れるよというのがあって、そこから帰国運動いうのが展開されたということだ。

◆帰国運動が盛り上がったということについてどういう要因があったか。
当時の在日朝鮮人の状況というのを考えたとき、貧困と差別という中で暮らしており、今よりも本当に厳しい状況の中で募らしていて、将来展望というのがなかなか思い描けないという中で、朝鮮戦争が終わって復興を行う社会主義という体制を行っている国というのがかなりまぶしく見えたという事はあると思う。その中で、そっちの祖国の建設に未来を託したというようなそんな思いがあったのではと思う。

◆この頃は、社会主義国としての朝鮮民主主義人民共和国は、非常に経済成長もあったということか。
数値上は、どんどん上がっている時期だ。

◆このときの帰国というのは、どちらに帰る帰国か。
今申し上げている北の方のことだ。

◆在日の出身者は、朝鮮半島で言うと北と南どちらが多いのか。
ほとんど南部と言っていい。9割5分、9割7分以上ぐらいだったと思う。

◆北に帰るということについて抵抗はなかったのか。
なかったと言うと、嘘だと思うが、当時のビジョンとしては、それで行って終わりという話ではなかったと思う。つまり、南北統一がそのうちあるだろう、それから日朝国交正常化があるだろう、祖国との自由往来が達成されるだろうということで、一方通行のつもりは多分なかったと思う。それは、いずれも達成されないことに結果的にはなったが。 だから、北に行くことが南に行かないことになるという発想ではなかったのではないかなという気もする。

◆この当時は、南の政治状況はどういう状況だったのか。
その当時は李承晩政権の時期だ。それで、反共というのを一応国是としており、そちらに帰るというときに、かなり在日朝鮮人は無産者が多い状況で、思想的には、やはり社会主義の方が資本主義の自由競争というよりは、そちらの平等の方にかなり思い入れがある状況で、差が多いと。それで、その中で大韓民国へ行けるのかという問題があったと思うし、そもそも、そちらの方からはどうぞという呼び掛けがあったわけではないという事がある。

◆59年から帰国事業が始まるわけだ。
 そうだ。

◆そして、60代年を通して帰国事業がなされたということでいいか。
はい。

◆その間の朝鮮学校の教育内容というのは、どういうものだったのか。
総連になって、どんどん教育内容を変えていくというか、まず、教科書を統一したり、いろいろやっていく。朝鮮学校の教育のベクトルという言い方をたまにするが、 帰国をする、あえて何とかなるようにというベクトルと、日本で今後も暮らしていくというベクトルがあるわけで、それで、このどっちかに収れんされた時代というのは多分ないと思う。 しかし、この教育事業というのを一つのきっかけとしつつ、かなり、帰還しても何とかなるようにというところは強まったと思う。

◆60年代の教育というのは、朝鮮語による普通教育ということか。
そうだ。 基本的には普通教育だ。

◆少し背景的事情が変わるのは何年ぐらいか。
・・・何度も変わりますので。

◆60年代は. 普通教育で大体収まっていたのか。
ずっとそうなのだが。

◆特色ある教育になるということで言うと。
常に特色あるが、一番本国の状況に近くなっていくのは、60年代、70年代というふうに認識している。

◆67年にチュチェ思想というのが掲げられたということを意見書にも書かれているが、このチュチェ思想というのは一体どういうものか。
一言ではなかなか言いづらいが、人問中心の哲学という言い方をするが、よくそこへ行き着くのは自主とか自立とかいうようなことだ。 或いは事大主義批判というような事だが、脈絡としては、中国とか、ソ連とか、大きな社会主義国が隣にある。 それの影響下でいろいろやっていたところからの脱皮という側面が非常に強い。 それで現象的に見ると、マルクスいわく、レ一ニンいわくというような文章の書き方が、金日成いわくに変わっていくというような流れがある。

◆67年にチュチェ思想が体系化されたというふうに言っているが、その結果、それが73年の改訂に結び付くというふうに考えていいか。
その辺は、実は文献によっているが、余り確認はできてない部分で、一応、何人かの当時の関係者が書いたようなものを見ると、やはりその67年に、チュチェ思想というのは唯一思想という形で掲げられて、もちろん、それ以前からそういう流れはあるが、唯一思想という形で掲げられて、その中で、いろいろ組織内でも引き締めみたいなのがある中で、教育にもそれが反映されていくのが70年代というふうに認識している。

◆73年の改訂では、割と北朝鮮の教育内容に合わせた教育がされているというふうに認識しているのか。
そうだ。 徐々に名称が、例えば金日成主義というような言い方も使われるようになって、 そういうのが非常に色濃くなるのがその時代だと思う。

◆83年に改訂が行われているが、その83年の改訂作業は、いつ頃から始まったのか。
それも、ちゃんと調べられきれてはないが、70年代後半という記録がある。

◆そうすると、チュチェ思想が中心的に教えられたのは70年代前半から83年の改訂までということか。
最も強かった時期ではないかと思う。

◆その83年の改訂というのは, 在日の状況の変化があったというふうに認識しているのか。
意見書にも、教育内容と在日朝鮮人の状況との間の乖離という表現をしていたと思うが全般としては、帰国事業が停滞をしていくと、それで、主導がだんだん一世から二世へと移っていくと、それから70年代に、いわゆる在日論と言うが、本国とも日本とも違う独自の存在、我々在日という在日論というのも結構いろいろなとこで言われるようになっていくとか、そういう背景の中で、かなり祖国色の強い金日成主義の強いものと、日本の中で今後も暮らしていくのではないかという状況との間の乖離というところを埋めようという話が出てきたというふうに認識している。

◆83年の改訂は、具体的にはどういう内容だったか教えてほしい。
はっきりとは分かりにくいところがあるが、まず、それ以前のカリキュラムの中で、例えば、国語もそうだし、歴史もそうだし、英語もそうだし、そこにそれぞれ金日成の革命の歴史みたいなのが入ってきたりすると。 それで、どこを見ても同じようなストーリーが小中高の段階で入ってくるというところから、歴史の問題というのは一本化していくと。それから、言葉に関しても、朝鮮語の日常言語とかをちゃんと取り上げるようにしたとかというふうに聞いている。

◆日常言語として取り上げるということは、もともと母語が日本語だからということか。
そうだ。 本国で生まれ育った人は最初から朝鮮語を喋っているわけだが、日本話を生活言語として育ってきた人が第二言語として母国語を学ぶということを考えたという事だ。

◆更に93年にも内容の改訂が行われているというふうに書かれているが、改訂の内容について教えてほしい。
これは、かなり全面的な改訂で、教科書を全部入れ替えたというふうに聞いている。80年代終わりから準備が進められたというふうに聞いているが、方向性としては、例えば、金日成の幼い頃みたいな科目がなくなるとかいうような事がある。それから、日本の歴史とか地理とかいうのが小学校段階でも教科書として入ってくるという事にも見られるように、日本とか世界の情勢に関連しての授業数が筯えていくというようなことがある。 等だ。

◆その改訂作業を行った組織というのはどういう組織か。
それは、はっきり調べきれてないが、基本的には総連が、1986年だったか、在日の状況に合わせて教科書を改訂しようという決定をした中で進められたという事だ。 どういう人が参加していたかというのは、その段階のことはよく分からない。

◆次の2003年の改訂のときには、もう先生ははっきり判ったのか。
それは、当事者からも聞いたこともあるし、朝鮮学校の教員もそうだし、それから、朝鮮大学校で歴史研究をやっているような人とか、そういう研究者、そういった人たちが入ってやっていったという事だ。

◆教育編集委員会みたいな。
教科書編集委員会だ。

◆作られたという事か。
 そうだ。

◆2003年の改訂の理念というものは、どういうものか。
何か一言で言うフレーズがあったかどうかは記憶にないが、民族科目の強化ということと同時に、情報教育の充実とか、それから,日本と世界に関連する授業の充実というようなことが掲げられていたと思う。

◆他には。
それから、もう一つ。大事なことを忘れていたが、2000年に南北首脳会談があって、その精神、要するに統一に向かう精神、南北融和の精神みたいなのはかなり反映されている。

◆在日の教育が、どのような形で影響を受けてきたのかという事を、まとめ的に少し話してほしい。
先ほど言ったような感じで、60年代、70年代は、最も祖国のベクトルが強かった時代だと思うが、それ以前と、それから現在に至るまでは、かなりいわゆる在日というのが非常に強くなった方向で変化を遂げてきたと。それでも、基本的には、本国の授業内容がコピーアンドペーストだったことは一度もないと思う。その時々の在日の状況というのが100パーセント反映されることはないが、それを見ながら改訂を進められてきたという事があると思う。

◆帰還が前提となるかどうかというのがかなり大きいファクターだというふうに考えているが、それは、それで正しいか。
前提というか、将来像だ。日本と南北朝鮮という3者関係がどうなっていくのかと。その中で、どこで暮らして、どこで活躍していくかという将来像が反映されていくところだと思う。

◆教育内容の決定の主体的なものを、被告は、北朝鮮があり、そして、総連があり、そして、朝鮮学技があるという一本系統のような主張をしているが、それについては、どういうふうに考えているのか。
北朝鮮本国で在日の状況を全て把握できているわけではないので、そういうトップダウン形式での教育というのは無理だと思う。むしろ、在日の側の要請、要求を反映する形で作られていったと考えられるのがいいと思う。

◆在日の側が主体性を持ってということか。
まあ、そうだ。

◆(証拠物、朝鮮学校初級4年の教科書を示す)現在の教育内容について、2003年の改訂の内容について聞く。この4年生の教科書目次のこの2は主に、日本の地域、地形、地図という地理のことか。
そうだ。私たちの住んでいる日本だ。

◆「私たちの民族と文化」と書かれているが、少し説明願えるか。
この段階のものは、朝鮮文化入門みたいな感じで、金属活字がどうしたとか、天文技術がどうしたとか、キムチのこととか、踊りのこととか、そういう日本の人でもよく最初に出会うような内容が入っていたと思う。

◆(証拠物、初級5年教科書を示す)この5年生の社会は、「わたしたちの朝鮮」 というふうに2ページから41ページまであるが、ここは、どういうふうな特徴がるか。
現代社会の祖国版という感じだ。この場合は、北、朝鮮民主主義人民共和国が基本的には祖国の中心に置かれて、と同時に、南朝鮮という言い方になっているが、南半分のことも扱うという内容になっている。それで、最終的には、南北首脳会談、共同宣言みたいなところに行き着くような、そんな内容になっていたと思う。

◆31ページを示す。「北南共同宣言」というふうに書いてあるが、これが一つの重要なことか。
そうだ。この教科書の基本精神と言うか、教育過程が基本精神みたいな感じで挙げられていると思う。

◆あとは、もう全部、日本の歴史になっている。
そうだ。

◆(証拠物、別の教科書を示す)これは、物価とか、権力とか、もう全部、日本の制度ということか。
そうだ。 公民、現代社会的な内容だ。

◆最後の方に、在日同胞とは何かというふうに書かれているが、これも、同胞がどういうふうな生活をしているかとか或いは、民族教育はどういうものかとか、生活とか権利の問題が書かれているということか。
そうだ。3年生の段階から在日のことは扱われていて、自分のお父さん、お母さんのこととかを調べてみようというとこるから始まり、6年の段階になると、そういう形で客観的な制度の問題とかデータとかが扱われているという事だ。

◆少しずつ在日の社会というものも広げていくという趣旨か。
そういうのが見て取れる。

◆この他にも、書証では上げてないが、朝鮮歴史と朝鮮地理という科目があるのだが、それぞれ5年生と6年生の配当ということか。まず、朝鮮歴史については、先生は、かなり詳しく分析をしておられるが、何ページでできていて、何項目あるかを教えてほしい。
記憶で言うが、142ページだったと思う。 読み切り型の項目が42節でできていたと思う。

◆それで、古代史、封建時代、近代、現代というふうに分かれているということか。
そうだ。

◆そのうち南北の分断前を扱っているのは何項目になるのか。
39までは明確に分断前ということになる。

◆40の途中からは分断後ということか。
40が金日成のことで、前半が戦前偏、後半が戦後偏という形になっている。 それで、41が南朝鮮、42が金正日というような流れになっていると思う。

朝鮮半島分断前だから、もちろん朝鮮半島全体の歴史を教えているということか。
そうだ。

◆それから、朝鮮地理の範囲というのは、どういうふうな範囲になっているのか。
朝鮮半島全体の自然地理とでも言うべきもので、気候がどうだとか風士がどうだというような全般的な話とか、後半は、北部、中部、南部という分断線関係なく北から順に地域の特色というのを教えていくというような。中部には分断線が入っているが、それも含めて中部ということで教えているという事だ。

◆そういう形で、朝鮮地理も朝鮮歴史も、多くの部分は南北の分断を関係なく教えているということでいいのか。
そうだ。 民族の地理、民族の歴史というような扱いになっていると思う。

◆同一民族ということか。
はい。

◆その社会、或いは音楽とかもそうだと思うが、それは、日本の教育では代替はできないというふうに考えているのか。
日本の公立学校、私立学校においては、陰に陽にカリキュラムが指導要領に縛られている関係もあり、日本人を中心にした国民教育というような側面が非常に強いと思う。「日の丸」君が代も, 公立学技を中心に強要されているし、そういう中では、そういう民族教育というのは、なかなかやりにくい状況というのはあると思う。

◆朝鮮地理とか朝鮮歴史とかは、とても教えられないという事か。
一部として教えるということはできるとは思うが。

◆その他に、朝鮮学校の特徴というのは何なんなのか。
言ってないところで言えば、言葉だ。 朝鮮語が標準言語になっているという事だ。

◆先ほど示した教科書は、全部ハングルで書かれているということか。
そうだ。 日本語の教科書以外は全て朝鮮語だ。

◆これは一体どういう意味があるというふうに考えているのか。
先ほど、ちらっと言ったように、生活言語が日本語である子供らに、朝鮮学校の間は朝鮮語の世界に漬からせると。言語イマージョンという表現をそこで使っているが、そういう意味合いが強いと思う。だから、そういう意味ではバイリンガルにさせるというような意味合いが強いと思う。

◆民族的アイデンティティ朝鮮語を話せるということについては何か関連があるというふうには考えているのか。
日本にいて、日本語の世界だけ見ていると、それでしか見えない世界というのがあると思うが、そこにプラス朝鮮語の世界というのが入ってくることで世界が広がる。そういう意味合いはあると思う。

◆民族的アイデンティティという言葉も先生は使われているが、日本の教育環境と朝鮮の教育環境では, アイデンティティの獲得の仕方が変わってくる可能性があるというふうに考えているのか。
一様には言えないが、それは、あると思う。

◆日本の学校では、どういうふうな。
これも、いろんな体系があると思うので、一様には言えないと思うが、基本的には、マジョリティが圧倒的に日本人だという状況の中で学校に通うと。 その中で、マジョリティとは違う存在として、民族的アイデンティティが違う存在としての私というアイデンティティの築き方になるのかなというふうに思う。

朝鮮学校では、どうか。
最初から、日本に住む朝鮮人チョソンサラムという言い方をするが、そういうのを前提に教育していくという事だから、そのアイデンティティの獲得の経路が達うという事だ。

◆いずれにしても, 自分が朝鮮人であるという事と出会うということか。
人にもよると思うが。



レイシズムについて

レイシズムについてお尋ねするが、先生がレイシズムというふうな概念を使われるときは、どういう事で使われているのか。
ちょっと学者的な言い方になりますが、授業で言うときには、いろんな定義があるが、大体、欧米中心にレイシズム論ができてきたので、なかなか日本には適用できないところがある。なので、割にオリジナルに定義していて、関係性と言説の相互作用と、申し訳ないが、そういう表現を使っている。関係性というのは、格差があったり、不当な扱いを受けたりというような、そういう関係の問題で、言説というのは、なんでそんな不当なことがあるのかということを説明したり、正当化したり、支えたりするような言葉だったり、概念だったり、考え方、そういうのが、奴隷制というのが一番分かりやすいと思うが、何故、あんな不当な扱いがあるのか、やはり黒人が劣っているからだという言説がある。また、言説がそうやって出来上がっていくと、また、そういう不当な関係性が作られていって、この相互作用という言い方をしている。

レイシズムというのは、一般的に、どういう形をとって現れるのか。
これも、いろいろあるが、一番ひどいのは、もう本当に殺戮という形になっていって、もう少し弱いのでいくと、いわゆるへイトスピーチというのもある。それで、多くは排除という形をとる。アパルトヘイトなんかが一番分かりやすいように。他方で、最近の研究だと、排除だけじゃなくて、包摂するレイシズムというのもあるという言い方もする。

レイシズムの歴史ということで文献も出しているが、レイシズムというのは、最初、どういう形で現れるのか。
レイシズムという概念は欧米でかなり作られたので、そこで念頭にあったのは、生物学的な人種の違いによって起きるレイシズムと、学間的には、科学的レイシズムという言い方をしている。

◆現在は、そういうレイシズム論ということは余りないのか。
今の、よく教科書とかで教えられるやり方と、科学的レイシズムというのが批判を浴びて消えていく中で、新たに文化的レイシズムとか、新しいレイシズムとか、いろんな名前で呼ばれるものが出てくるという言い方をしている。 それは, 欧米の事だ。

◆文化的レイシズムというのは、先生も書いておられるが、どういう事か。
生物学的人種による優劣みたいなことはもう言わないと。一方で、文化の多様性を認めたりすると。にもかかわらず、この国である人々が自分らとは違う何かをやっていると。文化的な何か違いがあるということに対して、それはやめろというような形で、かなり抑圧、同化を迫ったり、排除していったりということをやっていくと。そんなものだ。

◆文化的レイシズムというのは、どういう特徴があるか。
文化の中身もいろいろあるが、宗教もあり得るし、言語もあり得るし、単なる生活習慣というようなものも含まれる。そういうのが差異の資料として使われるということだ。

◆他には、差異が支配集団のアイデンティティの脅威になるということも言われているが。
そうだ。なぜ排除するのかということを説明するときには、そんなのがのさばったら、たまらないというような意見合い、我々にとって脅威になるというふうな言い方をする事になる。

◆あと、差異の次元は歴史的な経緯がある。奴隷とか、植民地支配。そういうふうなことを選択されるというふうに書いているが。
レイシズムの主要な源泉が奴隷制奴隷貿易と植民地支配があったというのは、2001年のダーバン会議とかでも世界的に言われた事だ。

◆そういう歴史的経緯の下で、違いが差別として選択されるという事か。
はい。

◆具体的に本件のことで聞くが、例えば、まず、本件のきっかけになったのが、学校の向かいの公園を50年間不法占有していると、それを取り戻すというふうな言説だが、それは、レイシズムの現れというふうに考えていいのか。
その主張そのものがレイシズムと言うかどうか分からないが、そういうのを口実にああいう行為をしたというのが正にレイシズムという事だ。

◆もう少し付与してほしい。
もう少し言うと, 法律の業界はよく分からないが、少なくとも、社会学とか歴史学の分野の中では、そういうのが非常に典型的な事例として言える部分だ。つまり、この空間というのは、例えば白人の多い地域だったら、我々白人が占めるものだと。オーストラリアという国は我々白人の国だと。 そこで、ある程度、多樣性は認めたはいいけれども、あるラインを越えると排除するみたいなのが、最近の文化的レイシズムの中では、よく言われていることで、その中にはこの空間は我々何々人が占めるものだというのがある。

◆例えば, 公園でいくと。
この場合でいくと、公園というのは日本人が本来占有すべき場所なのに。そこに異物が入り込んでいる。だから排除するという論理になっていると思う。だから、よく言われる議論の応用編みたいになっていると思う。

◆(証拠物、第14口頭弁論被告本人八木康洋氏の速記録を示す)「私たちは、在日韓国人在日朝鮮人全体に対して憎悪を向けているわけではない」とあるが、そういう言説については、これも、やはりレイシズムの一つの表現だというふうに考えているのか。
このような表現というのは、割に歴史的に見覚えのある表現で、戦前で言えば、不逞鮮人という表現がある。戦後で言えば、第三国人というような表現があるが、一部の悪い人がいると、反日的な存在がいたり、秩序を乱したりする存在がいるという名の下に、過剰にそれが一般化されていって、いろんな監視態勢が敷かれたり、差別が行われたりというようなデジャヴがある。

◆これも典型的なレイシズムというふうに言っていいか。
典型的か分からないが、歴史的によく操り返されてきたような事だと思う。

◆今、過剰な一般化というふうに言われたが、過剰な一般化というのは、レイシズムの一つの特徴というふうに言っていいか。
よく見るパターンだ。 一つの経験が一般化されて、ある民族が投影されるというパターンだ。

◆(証拠物、第9回口頭弁論被告N氏の速記録を示す)彼女は、在日コリアンと一緒に商売をしようという話になって、400万円の借金を背負わされたと。そういった詐欺行為を行った人とかは本当の国に帰ってほしいと。それが全ての外国人を平等にして下さいという主張に繋がっているが、それも、レイシズムの一つの現れというふうに考えていいか。
これも、その事件自体は、すごく、この尋問を聞いていたので、大変な目に、遭ったなと思つたが、そこからやはり過剰一般化が進んでいるなというふうに思いながら聞いていた。

◆(証拠物を示す)「朝鮮進駐軍の元締めが朝鮮総連だったんですよ」と、戦後、朝鮮人が不法占拠をして、「その士地に、パチンコ、焼き肉、風俗店、などなどなどを出店し」と、被告は真実だというふうに言っているが、そういうふうな「事実」について言っているということも、やはり、それはレイシズムの内容になるのか。
その学校にとっては関係ない話だ。それから、朝鮮進駐軍というのは、そもそも最近の造語ですし、全く関係ない事を攻撃の材料として使って、その場で言っているというだけだと思う。

◆あとは、例えば、ゴキブリという言い方とかがあるが、それも,やはり一つのレイシズムか。
本当に、人間に対してそんな言葉を言う人がいるのだなって感じだが、ゴキブリという言葉をなんで使うんだろうということに対しては、考えたことがあって、つまり、ゴキブリは、家の外にいたら、誰も排除したりしないわけで。やはり、自分らの家の中にいるから,潰したりとか、排除したりするという・・・。

(裁判長)
この辺りになってくると、大学の先生にレイシズムですかということを質問するレベルではないんじゃないんですかね。
だから、そこに、その言葉の何となくニュアンスが感じ取れるなと思ったことはある。

◆あと、拉致の問題とか、一般的に政治的言論というふうに言われるものも文脈によってはレイシズムになるというふうに考えるのか。
それを言うべき場というのはあるかもしれないが、そこで言って何になるかという事を言うということは、別の動機があるというふうに僕は思うが、そういう点で、排外主義の道具になっている部分があると思う。

◆学校の場で、レイシズムと思われる言論がまき散らされたという事で、それについて何か意見等はあるか。民族教育ということに対する侵害という点で、どういうふうに考えているか。
保護者とか教職員の方が、その辺は、かなり痛烈に感じておられると思うが、普通に学校で教えていて、こういうことが起きるんだと言う前例になってしまったという事だ。 だから、教員にとっても、学校に子供を送る保護者、あるいは、これから送ろうと思っている保護者にとっても、やはり一種の覚悟みたいなものを要請することになってしまったというふうに思う。 それは,心的なストレスになるだろうというふうにも思うし、それから朝鮮学校というのが日本の学校から分離する形で自主的になされている。分離型でなされているということ自体、ある種のシェルター的な役割りをしていると思うが、そういうところまでやってくる事例になっちゃったということは非常に大きな打撃だろうというふうに思う。




原告側尋問終了。



(次回は反対尋問)

検察起訴に対する徳島県教組声明

徳島県教組声明が入手できたので全文と付随の資料を掲載する。
なお、今回、起訴されたのは「チーム関西」メンバーであった2名である。
以下、声明文。



検察審査会不起訴不当議決を受けて検察による起訴判断に対する声明
2013年4月4日

徳島県職員組合

2010年4月14日、在特会らによる徳島県教組書記局襲撃事件から丸3年、公訴時効成立まであと数日を残す今日、徳島地検による起訴決定との判断が下された。
自らの主張のためには手段を選ばず、一方的に罵声を浴びせて攻撃するという民主主義の根幹を否定する事件の首謀者を許すことはできない。この3年間、あのおぞましい記憶は消えることなく私たちの胸に刻みつけられ、なお一層の憤りをもって司法の場に訴え続けてきた。
事件から一週間後の4月21日、刑事告訴し、同年9月8日、7人が逮捕された。そして、9月29日に6人が起訴され、徳島地裁では11月17日に3人の裁判、京都地裁では、翌年2011年2月1日から主犯格3人が京都朝鮮学校事件との合同裁判となり、それぞれ有罪が確定した。しかしながら、「建造物不法侵入・威力業務妨害」で、主犯格と同様な役割を果たした2名はともに不起訴となり、「名誉毀損」でも19人すべて不起訴となった。
私たちは、検察の判断に納得できず、2011年7月28日に、徳島検察審査会に審査申し立てを行った。そして、約1年近くの審議を経て2012年6月21日に、私たちの主張をすべて認める「不起訴不当」議決がなされた。その議決を受け、再び徳島地検に差し戻されることとなった。私たちは全国の支援者に呼びかけ、事件の「起訴を求める団体署名」に取り組みつつ、これまで幾度となく徳島地検へ上申書・意見陳述書を提出してきた。「起訴を求める団体署名」は、県内外合わせて合計1549筆の署名を提出することができた。この署名の重みを労働組合の社会的責任と受け止め、徳島地検の厳正なる判断を待った。
徳島地検の判断は、「名誉毀損」については不起訴となったが、「建造物不法侵入・威力業務妨害」については、2人が正式起訴となった。検察審査会への申し立てから起訴まで持ち込めるのは、わずか0.93%に過ぎない。私たちがあくまで刑事裁判にこだわってきたのは、主義主張のためには、どんな蛮行も表現の自由と称して政治活動だと主張し,正当化することに対し,厳しい刑事処分で臨むべきだとの判断からである。
在特会やチーム関西をはじめとする排外主義者の活動は、京阪神だけでなく高知や島根など、全国各地で広がりをみせている。特に、「竹島問題」「朝鮮学校授業料免除不許可問題」「朝鮮学校及び朝鮮総連土地問題」「朝鮮学校助成金問題」をはじめ「慰安婦問題」など、ヘイトスピーチを繰り返しその行動を正当化しようとしている。また、東京では、新大久保外国人排斥デモが5回も起こっている。
今後も、徳島県教組は、排外主義を許さない立場で運動をさらにすすめていく。思えば長く険しい道のりを一歩一歩踏みしめ、ここまで闘いを続けてきた。多くの支援者の力なくしてこの闘いを構築することはできなかった。改めて多くの支援者の勇気ある行動に感謝と敬意を表すると共に、今後も、さらなる闘いを続けていくことを宣言する。








以下、資料。

[参考資料]  平成24年版 犯罪白書 第5編/第2章/第1節/3
(まとめ)
昭和24年から平成23年までの検察審査会での処理 16万0081人
 内 起訴相当及び不起訴不当            1万7734人(11.1%)
 内 起訴                    1493人(0.93%)    有罪                     1334人(0.83%) 
     自由刑                     468人(0.29%) 
     罰金刑                     866人(0.54%) 
    無罪(免訴及び公訴棄却を含む。)          86人(0.05%) 
 [平成24年版 犯罪白書
3 不起訴処分に対する不服申立制度
公訴権は,原則として検察官に付与されているが,検察官が判断を誤り,起訴すべき事件を起訴しない可能性もあることから,検察官の不起訴処分に対する不服申立制度として,検察審査会に対する審査申立て及び管轄地方裁判所に対する付審判請求(「準起訴手続」ともいう。)の制度がある。
(1)検察審査会に対する審査申立て
検察審査会(現在,全国に165庁が設置されている。)は,選挙人名簿に基づきくじで選定された11人の検察審査員(任期6か月)により組織され,申立てにより又は職権で,検察官の不起訴処分の審査を行い,「起訴相当」,「不起訴不当」又は「不起訴相当」の議決を行う。
従来,検察審査会の議決には,法的拘束力はなく,検察官が,その議決を参考にしつつ,公訴の提起を判断するものとされていたが,検察審査会法(昭和23年法律第147号)が改正され(平成16年法律第62号による改正),一定の場合に検察審査会の議決に基づき公訴が提起される制度が導入された(平成21年5月21日施行)。この制度では,検察官が不起訴処分とし,検察審査会が起訴相当の議決を行った事件につき,検察官が再度不起訴処分にした場合又は一定期間内に公訴を提起しなかった場合には,検察審査会は,再審査を行わなければならず,その結果,「起訴をすべき旨の議決」(起訴議決)を行ったときは,公訴の提起及びその維持に当たる弁護士(指定弁護士)が裁判所により指定され,この指定弁護士が,起訴議決に係る事件について,検察官の職務を行う。
検察審査会における事件(再審査事件を含まない。)の受理・処理人員(最近5年間)は,5-2-1-1表のとおりである。平成23年における受理人員のうち,刑法犯は1,878人であり,罪名別に見ると,自動車運転過失致死傷が290人と最も多く,次いで,職権濫用(221人),傷害(196人),文書偽造(187人),詐欺(148人)の順であった。特別法犯は216人であり,労働基準法違反が60人と最も多かった(いずれも延べ人員。最高裁判所事務総局の資料による。)。
起訴相当又は不起訴不当の議決がされた事件について,検察官が執った事後措置(最近5年間)を,原不起訴処分の理由別に見ると,5-2-1-2表のとおりである。
検察審査会法施行後の昭和24年から平成23年までの間,検察審査会では,合計で延べ16万81人の処理がされ,延べ1万7,734人(11.1%)について起訴相当又は不起訴不当の議決がされている。このうち,検察官により起訴された人員は,延べ1,493人であり,1,334人が有罪(自由刑468人,罰金刑866人),86人が無罪(免訴及び公訴棄却を含む。)を言い渡されている(最高裁判所事務総局の資料による。)。
また,起訴相当の議決がされた後,検察官が不起訴維持の措置を執り,検察審査会が再審査した事件のうち,平成23年に再審査が開始されたものは5人であり,同年に議決に至ったものは,起訴議決が3人,起訴議決に至らなかった旨の議決が2人である(いずれも延べ人員。最高裁判所事務総局の資料による。)。
◆5-2-1-1表 検察審査会の事件の受理・処理人員

◆5-2-1-2表 起訴相当・不起訴不当議決事件 事後措置状況(原不起訴理由別)

http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/59/nfm/n_59_2_5_2_1_3.html
[新聞記事]
■<ヘイトスピーチ>「殺せ」… デモ、目立つ過激言動■
毎日新聞2013年 3月18日(月)15時1分配信
デモなどで特定の人々を公然と侮辱する「ヘイトスピーチ」が目立つようになっている。海外ではドイツやイギリスなどヘイトスピーチを処罰対象としている国もあるが、日本では「野放しの状態」(専門家)。標的となった人からは「危険を感じる」という声も上がっている。【川崎桂吾】
「殺せ、殺せ」「ゴキブリ」「日本からたたき出せ」
2月上旬、外国人が多く暮らす東京都内の繁華街でデモがあり、そんなシュプレヒコールが飛び交った。デモは特定の外国人を排斥する目的でインターネットで告知され、男女100人以上が参加した。
既存の右翼団体とは異なり、参加者もほとんどが一般人。こうした現場を取材してきたフリージャーナリストの安田浩一さんは「数年前に比べ文言がより過激になっている。『殺せ』という言葉はヘイトスピーチと言えるのではないか」と話す。
一方、デモを呼びかけた団体の一つは「参加者から自然に出た言葉で、推奨しているわけではない。何がへイトスピーチなのか明確な定義はなく、デモの表現としてあっていいと思う」(広報担当者)と説明している。
デモを間近に見た外国人男性(25)は小声で「怖かった。危険を感じた」と話した。ツイッターでも「デモやばかった」「ひくわー」などのつぶやきが相次いだ。
デモを問題視した超党派の国会議員も抗議集会を呼びかけ、今月14日に200人以上が参加。また17日の同様のデモでは、コースの途中に「仲良くしようぜ」などと書かれたプラカードを持った人々が集まり、抗議の意思を示した。運動を呼びかけた男性会社員(30)は「もう見過ごせないと思った」と話した。
◇海外では処罰対象
ヘイトスピーチは社会の平穏を乱し、人間の尊厳を侵すとして、諸外国で規制されている。ドイツはデモや集会、ネットの書き込みで特定の集団を侮辱する行為を「民衆扇動罪」に定め、5年以下の禁錮刑を科している。国内に住む外国人を「駆除されるべき集団」などと表現する行為もこの罪に当たる。
イギリスの公共秩序法も同様の行為に7年の懲役刑、フランスや民族対立から内戦が起きた旧ユーゴスラビアモンテネグロも罰金刑を設けている。
しかし日本では規制がない。名誉毀損(きそん)や侮辱、脅迫罪は特定の個人や団体を対象にしており、国籍や民族などで分けられる不特定の「集団」に対する言動には適用できない。東京造形大の前田朗教授(刑事人権論)によると、表現の自由に反する恐れのあることが、規制に踏み出せない理由という。
ただ前田教授は「個人への侮辱が罪になるように、集団への侮辱を規制しても表現の自由には反しない。日本だけが時代遅れの『ガラパゴス』になっている」と話す。高千穂大の五野井郁夫准教授(政治学)は「東京に五輪を招致しようとしている日本でヘイトスピーチがまかり通っては、国際的な信用を失いかねない」と指摘。今回、抗議の意思を示した市民が現れたことに着目し「表現の自由を狭めかねない行政による規制の前に、こうした動きが起きたことを評価したい。差別を許さない市民意識を育むきっかけになれば」と話している。
ヘイトスピーチ(憎悪表現)
人種や国籍、ジェンダーなど特定の属性を有する集団をおとしめたり、差別や暴力行為をあおったりする言動を指す。ネオナチ運動に対処するため1960年にドイツで制定された民衆扇動罪や、「人種差別の扇動に対しては法律で処罰すべきだ」と宣言した国連の人種差別撤廃条約(69年発効、日本は95年に加入)を背景に、各国が規制に乗り出している。

■新大久保の反韓デモ、救済申し立て 「身に危険の恐れ」■
朝日新聞デジタル2013年 3月29日(金)21時59分配信
韓国系の商店が並ぶ東京・新大久保で「韓国人をたたき出せ」「殺せ」などと連呼するヘイトスピーチ(憎悪表現)のデモが続いていることを受け、人権問題に取り組む有志の弁護士12人が29日、「これ以上、放置できない」として、東京弁護士会に人権救済を申し立てた。
弁護士らは、外国人の安全を守る責任があるのに、適切な防止策をとっていないとして、警視庁に対しても周辺住民の安全確保を申し入れた。
申し立てたのは、日本弁護士連合会前会長の宇都宮健児弁護士ら。梓沢和幸弁護士は「在日外国人の恐怖感は高まっており、身体に危険が及ぶ可能性もある」と話した。


以上。




まず、確認しなければならないのは、この「徳島県教組襲撃事件」は、京都朝鮮学校襲撃事件に連なる事件であり、単なる建造物不法侵入・威力業務妨害では決してない。
何故なら、事件を起こした被告らは、両事件に重なっており、その主張は「朝鮮学校」を標的としたレイシズムそのものを根幹としており、その口汚い侮蔑表現は排外的であり、マイノリティ及びその支援者を愚弄し騒乱を巻き起した、ヘイトクイラムと呼ばれるべき事件であったからだ。
その上で、今回の検察審査会を得ての起訴は、まさに針の孔を通すほどの難しさであったのは上記資料を見ても明らかだ。その意味で、よくぞ通ったものだと感嘆する。
これも、事件後、そして前回判決後も長きに渡り、誹謗中傷繰り返し受けながらも問いかけを続けられた徳島県教組の粘り強さなしにはなかった。
この問いかけは、本来、悪質なデマによって踏みにじられた尊厳を取り戻すためのものである。被告らが言う「募金詐欺」がデマであった事は、前回裁判で明らかであるにも関わらず、未だに誹謗中傷を重ねる被告らに対する問いかけにはなったのではないだろうか。さらに、声明文の通り、これは、「在特会・チーム関西」というレイシズムに連なる人々への問いかけであり、ひいてはレイシズムを容認するこの社会の「空気」への問いかけに他ならない。
しかし、検察は、建造物不法侵入・威力業務妨害で起訴したが、本来あるべき名誉棄損が落とされてしまった。
今回、起訴された二人。特に元市会議員候補氏は、徳島県教組襲撃事件以降、2年以上に渡り刑事裁判で否定されたデマを基にした誹謗中傷をブログ上で延々と続けており、その、名誉を棄損する誹謗中傷の確固たる証拠がネット上で公開されているにもかかわらずだ。
元々、刑事事件において「名誉棄損」が取り上げられる事が非常に稀であったとしても、これで名誉棄損が問えないとなれば、いったい何があれば取り上げられるのだろうか。
筆者は、この現状を見るに、ヘイトクライムに対する現行法運用の限界を見せられた気になっている。

とまれ、様々な障害、妨害を乗り越えて問いかけを続けた徳島県教組に敬意を表します。お見事でした。

第17回口頭弁論傍聴記 オモニ会会長陳述書2

(陳述書1続き)



6 12月4日の事件の後にとった対策

私は、オモニ会の会長として、事件の後、年内、毎日のように第一初級学校に行きました。もともと事件のあった12月4日のころは、入学説明会、高速道路の説明会など、行事が目白押しだったのです。12月9日には、一般の方もお招きする餅つき大会が迫っていました。
12月9日の餅つき大会を例年のように行うかについて、やはり議論になりました。特に警戒したのは不審者の出入りで、父母も先生方も不安と緊張でいっぱいでした。事件が起こって5日目でもあり、大人たちは、周りの日本人が誰も信用できないような疑心暗鬼の状況でした。けれども、子どもたちは、餅つき大会を前々から楽しみにしていたのです。話し合いの結果、子ども達には、大人がびくびくしている姿を見せるのではなく、困難を乗り越えて行く姿を見せようということになり、例年通りに、広く開放してこれを行うことになりました。勇気を出して1日でも早く日常生活に戻るということを強く決意したのです。
そのような中、ある、日本人の詩人の女性から、餅つき大会に来たいとの連絡がありました。当日、その方は、数名の日本の方と、おおきな花かごを持って来てくださいました。彼女は、目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに、「皆さんは心を痛めないでください。これは日本人の問題です。恥ずかしいことです。」と言ってくださいました。私たち大人は、12月4日の事件があって、この「日本社会」から拒絶され、否定されているように感じていました。そして、自分たちは朝鮮人やからこんな思いするのも仕方ないのかもしれないとも思っていました。けれども、この言葉を聞いて、とても救われた思いをしました。この方の言葉と暖かい心に触れ、オモニ達は号泣していました。

オモニ会の集まりも何度も持ちました。オモニ達はみんな不安で、在特会らがきた時に備えて、どのように対策を立てたらいいのか、子どもたちにどのように説明するべきなのかを話し合いました。その中で、オモニ達保護者が持っている不安については情報を共有し、お互いにできるだけ話したり聞いたりして不安を解消していこう、そして1日でも早く普段どおりに戻ろう、子ども達の笑顔を取り戻そうと話しました。

12月16日には、保護者と先生方らが学校校舎の3階の講堂に集まり、会議を開きました。平日午後に開催したため、参加者はオモニ8〜10名、学校の先生、学園の理事長などで、限られた人数でしたが、みんな必死で対策を議論しました。この時には総連本部からも副委員長さんが来てくださり、保護者や先生方に、子ども達を守りきれなくて申し訳ないなどの謝罪をされました。
この日は、12月4日の前に在特会の人たちが阪神道路公団の警備員にインタビューをしている映像を見ました。アボジの中からは、「あんなこと言う警備員、信用ならん!子どもの安全を真剣に考えてくれるかどうかも不安や。子どもの安全を任せられるのか?抗議してクビにしてしまえ!」という強い意見も出ました。けれども、多くの保護者は、「敵対しても解決しない。仮にこの人をクビにできたとしても、次の人の理解がなければ同じこと。むしろ敵対して嫌悪感をもたれてしまったら、対応はより悪くなりかねない。」という意見を持っていました。そして、周囲の理解と支えををなくしては子どもを守れない、理解を得ることが一番だという意見に、最終的にはみんなが納得しました。
また、この時には、子ども達の感情の安定をどう確保するのか、法的手段をとるのか、国連に訴えるのはどうか、防犯体制をどう整えるかなどについても議論しました。校門は開放しないこと、在特会などの不審者来訪の際の避難訓練をすること、警察等関係各所への連絡を誰がいつするかの段取り、父母の連絡網の確立などを話し合いました。校舎周りにネットを張ってはどうかという意見も出ました。子どもに対する安全教育はどうするべきかも話し合いました。
そんな中、アボジであるAさんが、刑事告訴をすることを提案されました。私たちは、刑事告訴なんか本当にできるのかと、最初は訝しく思いました。私たちには、12月4日に在特会が来た時に、警察は子ども達を守ってくれなかったという苦い思いがあり、警察に対しての不信感がありました。以前、チマチョゴリの切り裂き事件があったときにも誰も罪に問われなかったこともみんな知っていました。そもそも、在日は、長い間、いろんな差別にあってきましたし、外ならぬ警察から民族学校が弾圧を受けた歴史もありますので、自分たちのことは自分たちで守るという考え方が体に染みついていました。私も、本当に、告訴なんかできるのかと半信半疑でした。告訴をすると逆効果になりかねないとして、「また晒しものになる。」、「子供たち晒しものにするのか。」、「これ以上在特会と関わりたくない。」などの消極的な意見もたくさんありました。あるオモニなどは、「なんで、私らがそれをせなあかんのやろ、なんで、私らが踏み台にならんとあかんのか。」と絞り出すように発言されました。
しかし、Aさんは、きちんと闘わないと安全も保たれない、きちんと責任を取ってもらうことが大事だという話を続けられました。そして、私たちにも権利があり、この日本でもこれが平等に保証されるのだという説明をされました。
それまでの議論では、自分たちの未来が見えないことから後ろ向きになりがちであり、ここにいる権利なんかないやん、何の権利もないやん、外国人やから仕方ないやん、などと、自分たちを卑下する内容の発言まで出てきてとても重苦しい雰囲気の中での発言でした。しかし、Aさんのお話を聞いているうちに、私たちにも権利があるんや、権利を認めてもらえるように、新しい所に踏み込んで行かんとあかんのや、と強く思いました。
話し合いの最後のほうで、あるアボジが、「朝鮮学校には、生きる権利もないんか?! 設備もない。人も足らん。けどあるのは誇りだけや。」と発言されたことをきっかけに、その通りや、誇りをを守ろうとみんなの気持ちが一つになりました。このようにして、今回の事件は、子ども達の為に、未来ある民族学校のために、一歩も引き下がらずに告訴をしようと踏み切ることになったのです。

当時は、登下校時の監視や警備など、子ども達の安全確保のために必要となる施策について、詳細な体制は決まっていませんでした。しかし、アボジやオモニの意識はこの話し合いをきっかけに高まり、翌12月17日から、警備のために自主的に大人たちが学校に集まるようになりました。オモニ達は、子どもを守りたい一心で一日中寒い中で立っていました。
そして、年内には、子ども達の一人一人の通学路を調べてもらい、それをリストにして、ペアを組んで駅ごとに警備の人を立て、子ども達の見守りに立つ体制を組むことを決めました。警備には先生だけではとても人数が足りないので、ローテーションを組んでオモニ会とアボジ会から毎日人を出すことにしました。それでも人数の確保ができなかったため、近所の同胞にも手伝って貰うこととしました。1月からは、警備体制をきちんとできる体制を組みました。そのため私たちは、警備に当たってくださる人の家を一軒一軒回り、警備のお知らせを手渡ししてお願いに回りました。
今回の事件後、地域の皆さんと顔が見える関係を築こうということで、地域にある「子ども110番」の看板を掲げている方々の家を訪問してお知り合いになりました。子ども達に対しては、自信を持って、「何かあったら、あそこに行って助けてもらうんやで!」と言えるような関係を作ることもできました。

12月4日以降、子ども達の登下校や、地元で起こる些細な事件・事故に対して、常に緊張を強いられることとなりました。避難訓練を実施したこともあります。普通の児童であれば、通学路は、登下校時に友達とおしゃべりをしながら学校に通う楽しい道であるはずなのです。けれども、その普通のことができなくなりました。私自身、地下鉄の中で娘が第一初級のエンブレムをつけた制服姿で乗ることが不安になりましたし、娘には電車に乗る時はうつむき加減にして人と目を合わせないようにしなさい、私語は慎みなさいと注意をしたりしました。とても辛いことでした。
12月19日にはオモニ達の全体会議をもち、子ども達の家での様子や学校での変化などを聴き取りました。公園に行きたくないという子がいたり、おねしょが再び始まったり、夜泣きをする子どももいました。中でも、事件の時、在特会メンバーに声を掛けられた子のオモニは、泣きながら、こんな事が学校で起きては絶対に駄目だ、と訴えられました。子どものために、親なら誰も持っている感情ですが、とても辛い中での訴えでした。
この他にも、何かしなければならない、という思いは強くありましたが、問題が多すぎて、何をしていいのかが分からない焦燥感でいっぱいでした。何をしていいかわからない状態でありつつも、しかし、私は、第一初級学校のために何かをしなくてはいけない、何でもやらなければならないという思いから、京都市、警察、市民集会など、話を聞いてもらえそうなところにはどこにでも行きました。

7 2010年1月14日前後のこと

 (1) 翌年1月には、在特会から街宣の予告がありました。私の中には葛藤がありました。街宣のある日には、子ども達を学校に居させてはいけないという気持ちと、なんで在特会なんかのために学校という大事な場所から逃げなければならないのか、という両方の気持ちです。
対策会議の中では、アボジたちには、「あんな奴らのために逃げるような形をとるのは不本意や。」という意見もかなり多かったです。しかし、12月4日の事件の現場のすさまじさを思い起こすに、1月14日のデモは、どうやら12月4日よりも規模が大きそうであることから、子供たちを危険にさらすことはできない、また、子ども達が街宣の様子を見て心に傷を負ってはいけないということで、学校の先生方も交えた長い話し合いの結果、1月14日は課外授業を行うことになりました。
急なことでしたので、課外授業といってもどこで何をするのか、対応に大わらわでした。甲166号証は1月9日に配布された学校からのチラシです。まだ行き先すら決まっていないことがわかります。
在特会らのスケジュールは事前に告知されていました。私たちは、街宣活動の終了時間にあわせて、課外活動のバスが戻る時間を設定しました。そして、父母に対し、子どもの帰ってくる5時頃に、できるだけ学校まで迎えに来て欲しいと告知しました。本当は、このような話をすること自体が、とても悔しかったのですが、子どもを犠牲にするわけにはいかないという気持ちで、我慢するほかなかったのです。
(2) 1月14日当日、私は、他の保護者等と、学校の中で子ども達の帰りを待っていました。既に、解散時刻をとっくに過ぎているのに在特会のデモは解散もしていませんでした。子ども達が帰ってくる時間になっても、周囲は、機動隊も出て、装甲車や警察車両の赤い回転灯がぐるぐる回っていてものものしい状態でした。そして、学校の周りでは、大人達のヤジと怒号が飛び交っていました。
私は、「もうやめて!!」と何度も叫びました。子ども達が帰ってくるのに、こんな学校の状況は見せられない、こんなことが学校の周りであってはいけないと思いました。必死で、警察官に対して、「もうすぐ子どもが帰ってきます。」、「こういう光景は子どもには見せたくありません。」、「早く撤収させてください。せめて装甲車は学校から離れてください。」と訴えて走り回りました。けれども、デモは終わりそうになく、学校の前に横付けされた装甲車や機動隊も動く様子がありませんでした。
そのうちにバスが学校に帰る午後5時が近づき、お迎えのお母さんお父さんたちが、車などでいっせいに学校にやってきました。そして、そのような騒然とした状況の中、子どもたちが観光バスで帰ってきてしまいました。子どもたちも、何かとんでもない異常事態があったのだと感じたはずです。
私は、子ども達を傷つけたくありませんでした。在特会を見せたくありませんでした。学校に何が起こっているかを見せたくありませんでした。けれども、結局、子ども達はこの光景を見てしまいました。私は、「いったい、何のために課外授業にしたんや。こんな情景、見せてしまったら一緒やんか。」と無力感でいっぱいでした。子ども達を守りきれなかった悔しさ、そしてどんなに言っても、警察も動いてくれず、在特会らも解散する様子も見えない空しさを感じました。いつまでこんなことが続くのだろうとデモ隊を呆然と見ていると、時折楽しそうに、勝ち誇ったように、学校のあたりで奇声をあげているのが見えました。そして、「朝鮮人は保健所で処分してもらいましょう。」という声が聞こえました。私は、ぞっとして全身の血が引いていくのを感じました。
騒動の中、近隣住民の方が外に出てこのデモを見ている姿を見ました。せっかく、地域の中で受け入れてもらえる雰囲気ができてきたのに、こういう騒ぎになってしまったことから、「朝鮮学校があるからこのようなことが起こるのだ」と地域の人たちに思われてしまわないか、結局、在特会が意図したとおりになってしまったのではないかいう無念さがありました。
後にあるオモニから聞いた話ですが、気丈な3年生の男の子が、普段は、在特会なんかやってきても戦ってやっつけてやる、と元気の良いことを言っていたのに、この日の喧騒を目の当たりにして、「あかん、やっぱりよう戦わん。怖いわ。」と言っていたそうです。このように、1月14日には、学校が在特会から子どもを守るために課外授業をしたにも拘わらず、結局、子ども達が学校の騒然とした様子を見てしまい、心に大きな傷を残してしまいました。

8 2010年3月28日前後のこと

3月にまた街宣があるという告知を見た時には、私は生きた心地がしませんでした。ですから、街宣の直前に、接近禁止の仮処分が出た時には、とてもホッとしました。このニュースは新聞で大きく報道されましたので、オモニ達はみんなで「わーっ」と喜びあいました。私自身は、ほっとした思いもありましたが、1月14日に、警察の解散という声に耳も貸さずに学校の周りをいつまでもうろついていた在特会の人たちの行動を思い出し、彼らは、誰が何を言ってもきかないのではないかという一抹の不安はありました。
3月28日には、私は、仕事で大阪に行っていましたので現場にはいませんでしたが、街宣の様子は、YouTubeの動画で見ました。彼らはとうとう裁判所の仮処分にも反したのだ、在特会であればそういうことはやるかもしれないと思いました。在特会らと、支援者との押し問答の様子を見ながら、私たちの愛する学校が私たちの気持ちと離れて大きな渦に巻き込まれてしまったのだ、騒ぎを大きくしたくないと願っていた私たちオモニの気持ちとはどんどん離れていってしまったのだと思い、呆然とするほかありませんでした。
3月28日は、学校に人がおらず、子どもたち、父母の気持ちに影響がなかったと思う方もおられるかも知れませんが、とんでもないことです。朝鮮学校があるからああいった連中がくるんや、と思われてしまえば、私たちが60年もの長い間築いてきた朝鮮学校と地域との信頼関係が崩れてしまうという恐怖感は、12月4日以来、私たちの心の中にずっとありました。そして、3月28日には、実際に、地域で大変大きな騒動となってしまったのです。私たちの恐れていたことが現実に起こってしまったのです。

9 一連の事件で損なわれてしまったもの

子供たちは、テレビなどから、普段、いろいろな情報にさらされています。日本のテレビでは、朝鮮に関する情報はほとんど悪いものしかありません。だから、普段から特に自覚をしていないと、朝鮮人であることは、隠さなければならない、恥ずかしいことや、と思いこんでしまいかねません。この上、日本の学校に行って、毎日通名で過ごさなければいけないとなると、それは習慣になってしまいます。毎日の生活で常に自分の出自、民族をかくさなあかん、恥ずかしいことやから、という意識を持つことに繋がっていくと思います。私ですら、煩わしいことを避けたいと思う時には通名を使うこともあるのです。
子ども達は、朝鮮学校に行っていなかったら、マスコミとか、日本社会の常識、非常識、偏見などに疑問も抱かず鵜呑みにしてしまう可能性があります。このような、偏見の中で生きるのはしんどいことです。そのしんどさの根本である「在日」とは何か、ということを教えてくれるところが朝鮮学校です。
子ども達が、自分の出自が朝鮮半島であることは別に恥ずかしいことでもなんでもないと自尊心を持つには、個々の家庭での価値観と、社会、学校が一致していないといけません。親から子への思いを学校がしっかりと受け止め、子ども達の存在を尊いものとして大切に育て、同じ民族の色んな世代の人から同胞社会の大切さを学び感じ取る、それが、私たち(ウリ)の学校(ハッキョ)、ウリハッキョです。子ども達は、日本で生まれ、育っており、多くの時間を日本で過ごします。日本の社会に出るまでに民族学校で自分の出自が朝鮮半島にあることを大事に思い、自信を持ってこそお互いを尊重し受け入れるバランスを持ち、日本社会の構成員としての役割を果たせるのです。ですから、ウリハッキョの民族教育は、彼ら在特会のいう反日教育であるはずもないし、これからの未来の日本と本国とをつなぐ夢を生み出す場所だと思います。
私は、子どもを叱る時に、たまに「学校にいかさへんで」ということがあるのですが、そうすると子どもは泣いてしまいます。子ども達にとっても学校はとても大事な場所なのです。子ども達は、オモニやアボジがこつこつ貯めたお金でスクールバスを買っていること、オモニ会が給食の世話をしていることなど、この学校を維持するために、在日同胞が多くの努力をしていることを知っています。
朝鮮学校は、子ども達のかけがえのない学び舎であり、また何世代もの同胞が集う大切なコミュニテイであります。だから民族学校は1世、2世の思いが脈々と3、4世にまでつながり、その思いが詰まった、心のよりどころでもあります。親になった今でもなお、朝鮮学校は、日々のしんどさの中、手をつないでがんばっていける仲間のみんなに会えるところでもあります。

私は、仕事柄、在日のハラボジ、ハルモニ(おじいさん、おばあさん)と触れ合う機会が多くあります。在日1世の中には、ハングルで自分の名前も書けない方がいます。その方達は、解放後、国語講習所に集まり、字を読める人を囲んで祖国の事を書いた文章を読んでもらって、生まれ故郷に思いをはせたのです。そのような1世の方には、自分は字も読めなくて恥ずかしいけれど、子ども達にはハングルで読み書きができるようになってほしいという強い思いがあると話されます。自分自身が貧しくて満足に食べられない中、1世たちは、お米や、果物を朝鮮学校に持って行って朝鮮学校を支えていたのです。早く亡くなった私のハルモニもそうでした。子ども達に朝鮮学校があることは、在日1世の支えにもなっていたのです。朝鮮学校は私たち朝鮮民族の財産です。そのために血を流し、思いを託して守ってきたのです。
私たちのかけがえのない第一初級学校を襲撃し、子ども達を震え上がらせ、根も葉もないデマを広め、嘲笑した在特会を、私は許すことができません。

ネット上では目を疑う言葉が行き交いました。長年かかって築いてきた近隣との関係も、あの日以来、ぎくしゃくしがちなものになってしまいました。学校に対する悪意と偏見に満ちた電話も多くかかるようになってしまいました。児童が公園を使うこと自体は全く問題がないはずなのに、事実上とても使いにくいという妙な雰囲気になってしまいました。少し生徒がグラウンドに出るだけで電話がかかってくることがあり、学校はそのたびに説明や対応をせねばならなくなったそうです。そして、第一初級学校はその長い歴史を閉じ、第三初級学校と統合しました。私たちはできるだけ在特会のせいだと思わないようにしていますが、あの事件がなかったらこうはなっていなかったと思うと、大変残念なことです。
阪神高速の工事が終われば、公園は元通り、子どもたちが思い切り走り回れるようにしてくれる、というのが、事件前の市の私たちに対する約束でした。ところが、あの事件の後、市は、私たちとの約束を反古にして、公園全体に遊具を置いたり通路を造ったり向月台のような山を作ったりして、学校の授業や行事に使いにくいものにしてしまいました。公園の完成予想図の青写真を見せられたときの衝撃は、今でも忘れられません。

10 裁判について

裁判を起こすこと自体がよかったのか悪かったのか、今でも結論は出ていません。起こったことに蓋をしてしまいたい気持ちも正直あります。裁判を通じて、私は、この負の連鎖を断ち切りたいと強く思うようになりました。あんなことが繰り返されるのは私たちで終わりにしなければならないと強く思いました。いじめや差別は社会悪です。あんな事が許されてはいけません。自らのやったことの罪の深さを思い知らせるべきだと裁判を通じて思いましたし、このようなことのできる場は司法の場しかないとも思うのです。
今まで失った多くのことを取り戻したいというのが私たちの願いでしたが、第一初級学校のなくなった今、それは不可能となりました。しかし、私たちは、より前向きになれました。それは、日本にある朝鮮学校は、多くの日本人の両親によって守られてきたのだと知り、学び、得がたい友人をたくさん得られたからです。私たちだけが怒り、許せないと思っているんではない。この間日本の人たちが私たちとともに怒り、励ましてくれたことは、裁判中、どんなに私たちを勇気づけてくれたかわかりません。

当時5年生だった私の娘は、第一初級を卒業して今は、中級学校に通っています。私は、娘が第一初級学校を卒業するのと同時に、オモニ会の任期も終えました。学校を出てしまった今、本当にあの事件があったのか、悪夢ではなかったのかと思います。できれば、忘れたい、引き戻されたくない気持ちもあります。実際、法廷で事件のDVDを見た時には、12月4日当時の焦燥感や怒りの気持ちに引き戻されてしまいました。
また、先に述べた子どもにGPSを持たせたオモニは、事件から1年たったころ、電波の具合が悪かったのか、GPSからの通知が届かなかったことがあって、在特会のことが頭に浮かび、何かあったのではないかと不安になり、仕事も手につかないまま学校に電話を何回もかけたこともあったそうです。何回目かでようやく電話が通じて、子どもの安全を確認できたそうですが、その間の何十分間かは生きた心地がしなかったということでした。
毎日のようにここまで心配しなくてはいけない現実があります。事件から月日がかなりたった現在でもなおこのような状況があることは、子ども達のことを常に考えている私たち保護者には耐え難いことです。金尚均さんへの尋問で、在特会代理人から、「仮処分があって、在特会も来なくなって、緊張状態は和らいだんではないですか。」という質問がありました。冗談ではありません。

私は本当に思います。自分が生まれ育ったこの地が大好きですし、日本人がこの日本に住みよくなることが、私たち在日にとっても住みよい、共存、共栄の社会になるのではないかと。この地は、日本の社会に生きる私たちにとって大切な家族、日本の友人と共に暮らす大切な場所なのです。そして何よりこの地で平穏と和睦、生きる権利を繋ぎ、後生にバトンをつなぎたいのです。
学ぶ権利とか、生きる権利とか、口で言うのは楽な言葉でした。けれどもそれが本当に脅かされたときに、初めてどんなに大切なことだったのか気がつきました。日本人の子供たちに学ぶ権利があるように、朝鮮の子供たちにも学ぶ権利がある、これは朝鮮の子どもも日本の子どもも同じで、等しく保障されなければならないものです。これはみんな持っている権利だ、だから、侵害することは許せない、私たちには享受する権利があること言いたいし、認めてほしいです。法の力で子ども達の権利を守ることができるということを、是非示していただきたいと思います。
私自身も、辛いことはたくさんありますが、この裁判を最後まで見届けたいと思っています。



以上。

第17回口頭弁論傍聴記 オモニ会会長陳述書1

今回の口頭弁論は原告側証人として、朝鮮学校襲撃事件当時のオモニ会(母親)会長であるFさんと、社会学歴史学の専門家である同志社大学板垣さんの証言がえられた。
その裁判証言内容としてFさんの陳述書と板垣さんの意見書が出されておりそれを入手する事ができた。そこには法廷で訴えるべき内容がそこに書かれており、掲載の承諾がえられたので、今回は形式を変え、プライバシーに関する部分のみ改変しそれを全文掲載する事とした。

まず、オモニ会Fさんの陳述書では法廷での証言と同じく、当時の生々しい事実関係と痛々しいまでの訴えが述べられており、これをまず2回わけて掲載する。
板垣さんの意見書は、朝鮮学校の成り立ちから、授業内容、組織について述べられており、その上で、在特会に留まらず日本の排外的構造の中で民族教育がいかに守られ育てられてきたかを論証しており、これも2-3回にわけて掲載予定。
また、その後、公平を期す意味で、被告側の反対尋問を掲載する予定となっている。ここでは在特会副会長八木氏の大活躍に期待してほしい。


なお、裁判は今回で証人尋問が終了し、次回期日は2013年6月13日(木曜)であり最終弁論が予定されている。





では以下より、当時オモニ会会長Fさんの陳述書を掲載する。








Fさん陳述書
                                


1 私のこと

事件の起こった2009年12月当時、私の娘は京都朝鮮第一初級学校(以下「第一初級学校」といいます。)の5年生でした。息子は、京都朝鮮中高級学校の高等部1年生でした。
また、私は、当時、第一初級学校のオモニ会の会長として、学校のお世話をしていました。
私は、京都市にある、在日の高齢者の介護施設の職員として働いています。

2 オモニ会の活動

「オモニ」は、朝鮮語で、母親を意味します。オモニ会は、初級学校の母親の会で、とても活発に活動をしています。
オモニ会は、日本の学校に比べて給食もなく設備も不十分で財政も苦しい朝鮮学校に通う子どもたちがよりよい環境で学べるように、自主的に朝鮮学校を支援する活動を行っています。例えば、月に1回子供たちに給食を作ったり、キムチやのりや冷麺を売ってその一部を朝鮮学校の財政にあてたり、バザーの売上げを寄付して学校に必要な備品を買うなどです。
また、朝鮮学校を地域の方によく知ってもらおうために餅つき大会やバザーを開催し、たくさんの地域の方が朝鮮学校を訪れる機会を持って頂くようにしていました。
さらに、朝鮮学校の子ども達が予防接種を無料で受けられるようになど行政との交渉もしました。私たちが母親として気がつくこと、たとえば衛生面でインフルエンザ予防のため消毒の準備をするように学校に提案したり、消毒薬を学校に準備したりもしました。
子ども達が健康で十分な教育をできるようにするためにできることは何でもしたいと思ってオモニ会の活動をしてきました。
また、オモニ達には、日本の学校に行っていた方も多く、朝鮮の文化を知りたいという希望も多くあります。そこで、オモニ会では、オモニ達が民族の文化にふれ教養を高めるために、講演会を開いたり、朝鮮の文化の勉強会を開いたり、みんなでキムチを漬けるなど、在日として自分のアイデンティティを確認する作業もしてきています。オモニ会は、学校を支えるだけでなく、在日同胞の母親達のコミュニティとして機能しているのです。
朝鮮学校には、父親達の会であるアボジ会もあります。これはオモニ会のだいぶ後にできましたが、オモニ会と同じく、朝鮮学校の支援をする趣旨の団体です。

私がオモニ会会長になった時に、学校の近くに阪神道路公団が高速道路を作る計画が進み、着工を控えていた時期でした。学校や父母から、現在ある学校のバスの駐車場がなくなるのでそれを確保してほしいとか、工事の騒音や粉塵がどうなるのか等聞きたいなどの要望があったので、オモニ会は行政に陳情や折衝に通っていました。阪神道路公団とは、1週間に1回の話し合いの機会を持つことができるようになりました。

3 朝鮮学校に通う意味について

私は、両親とも在日であり、私自身は在日3世です。私の祖父母は朝鮮から出稼ぎで日本に来ました。1920年代頃、私の祖父が日本に出稼ぎに来て日本である程度の収入を得ることができるようになったので、その後に、祖母や、叔母を日本に呼び寄せたのです。私の両親は2人とも日本の学校を出ていましたが、私には民族教育を受けさせたいと考えたため、私は朝鮮学校に通いました。
私自身は、物心がついていたころから朝鮮の文化の中で育っていました。子どもの頃、よく近所の子どもに「朝鮮」、「朝鮮」と言われていじめられました。そのときには、「朝鮮」は「ちび」とか「でぶ」、「あほ」とか言われるのと同じような、悪い言葉だと感じていました。私の家は朝鮮人の家で、他の家と違うということは分かっていました。「朝鮮人」は本当のことだったのですが私には逃れようもないことでしたので、近所の子ども達にそう言われると身の縮まるような思いがありました。「お願いやから、それだけは言わんといて」と思いました。「朝鮮」という言葉はその頃の私にとってはとても恥ずかしいものだったのです。
けれども、朝鮮学校で学ぶうちに、「朝鮮」が恥ずかしい言葉ではないと思うことができるようになりました。朝鮮学校で気持ちを強くして貰ったのだと思います。先生が、学校の黒板に「朝鮮とは朝の鮮やかなきれいな国という意味なのです。」と書かれ、優しくしっかりと諭すように言われた言葉をとても鮮明に覚えています。見たこともない自分の祖国に思いを馳せ故郷の歌を歌ったり民族衣装を学校で着てみては胸を躍らせたものです。学校で学んだ細かなことは忘れても朝鮮という言葉の意味は、生きていく上での心の支えになり、決して忘れることはないものとなりました。近所の子供達とは、行く学校も違うし、制服も違うけれど、朝鮮学校に行くことで、それが恥ずかしいことではないと思うようになりました。
日本で生きていく上で、北朝鮮が敵対視されていると感じられるという気持ちや、わずらわしいことに巻き込まれたくないという気持ちも一方であります。日々の生活の中で実名を明かしたり、在日であることが分かってしまうような場面では、今でも葛藤を感じることがあります。けれども、朝鮮という言葉は恥ずかしい言葉ではないということから、自分の国を知り、想うという当たり前の発送をしっかりと育み、強くすることでこの日本で生きていても何ら恥じることなく、むしろ心を豊かに強く生きていけるという自信が得られました。これらの大切なことは、朝鮮学校でしか学べないと思っています。
今回、第一初級学校に在特会が来て騒ぎを起こし、私は、就学前に「朝鮮」、「朝鮮」と言われていじめられた幼い頃のことを思い出しました。そして、私自身も傷つきました。
けれども、私は、在日3世です。どのように傷ついても、日本人として生きていくことはできません。

4 2009年12月4日直前の地域との関係(とくにバザーについて)

2009年10月頃、オモニ会では、11月1日に開催予定のバザーの準備に追われていました。
 そのころ、私は、京都市緑地管理課から、第一初級学校に対し、「近所からクレームが来ている。勧進橋公園での焼き肉をしては困る、マナーが悪い、駐車違反などがある。」などの注意があったということを知りました。
私はこの話を聞いたとき、大変恥ずかしいことだと思いました。確かにこれまでマナーが良いとは決していえなかったことにつき、思い当たる節があったからです。
私は、これまで、お餅つき等の行事の時にはお餅を近所に配ったり、バザーのお知らせをポスティングさせてもらったり、それなりに地域との良好な関係が築けていたと思っていたので、地域から学校にクレームがつくとは予想していませんでした。私は深く反省しました。そして、オモニ会で、私たちの努力が足りなかったのだと話し合い、「地域で認知される学校にならなあかん!」と思って、改善案をいろいろ話し合いました。バザーの日にちも迫っていましたので、大急ぎで対応をしました。
10月29日、緑地管理課の方が第一初級学校を訪れ、私たちは事情の説明を受けました。学校の教職員のほか、オモニ会の役員も同席しました。緑地管理課から、近所からのクレームの内容が知らされました。バザーのときの駐車違反車両が多いこと、タバコを捨てたりするなどの公園でのマナーの悪さ、公園で焼肉をすることは火気を使うので心配だなどというものが主でした。また、キムチ屋さんの店先に貼ってあった私たちの作ったカラーのチラシに、勧進橋公園が「運動場」と記載されていたという点にもクレームがあったということでした。これは制作工程でのミスでありましたが、私たちのチェック漏れも原因の一つであり、身の縮む思いでした。
私たちは、これまで時間をかけて準備してきたバザーを何としても実施したいという思いと、近隣の方々の思いを受け止め公園の利用の問題を解決したいと訴えました。市の職員の方は、バザーを中止しろとはおっしゃいませんでしたが、近隣の方々との問題には十分対応して当事者で解決してくださいと仰いました。私たちは、至急の対応が必要だと思いましたので、30日、31日と、オモニ会で緊急会議を開きました。
私たちは、誠意を込めて地元の方々の理解を得ようと必死で考えました。そして、自分たちの行いを改めようと、10月30日、オモニ会の名で、いままでのお詫びと、バザーのお知らせのため、「過去50年間この地で民族教育を行ってこられたのも京都市及び地域住民の方々のご理解とご協力の賜です。」という内容のチラシを作って配布しました。
クレームがあったというマンションの管理人さんとも直接お目に掛かってお話ししたかったのですが、突然申入れをすることもためらわれましたので、間に、市議会議員の先生に入っていただきました。そして、10月31日のオモニ会のあと、学校長とオモニ会の2人(私と、バザー実行委員長)の合計3人と、マンションの管理人さん(この方は、自治会の副会長も兼任されています)との面談が実現しました。
マンションの管理人さんは、「ここのマンションは、鴨川沿いで景観がよい、環境がよい、というのが売りです。新しく入居してこられる方は、新しく造成された新興住宅地のような感覚で入ってくる方たちが多いのです。在日の方が多い地域であるとか、歴史的経緯とか、何の予備知識もないのです。だから、この公園や学校の様子を見て、びっくりして反応してしまうのもやむを得ない面もあるんです。誤解、偏見から悪感情を持ってしまうところもあるのです。」とおっしゃっいました。そして、「地域の理解を得られるように努力を」とおっしゃって励ましてくださいました。
私たちの意識は、これまで、お餅配りにしても、バザーのポスティングにしても、何となく前から続いてきているからやっていたという面もありました。けれども、それは第一初級学校の先輩オモニたちが地域のなかで近隣の理解を得るように営々と努力し築いてきたものだったことがよく分かりました。私たちは、はたして、新しい住民の方達に理解を得るように努力をしてこれたのだろうかという反省もしました。そして、地域の方々の理解があって、はじめて第一初級学校が成り立つこと、子どもたちがのびのびと過ごせる学校環境が維持できるということを改めて感じ、その時々の地域の変化に応じて私たちも努力をしないといけないと、思いを新たにしました。
私たちは、管理人さんと面談したことで、やらなければならないことが見えた気がして、とても救われました。これまで以上に第一初級学校が地域に溶け込み、この地域の風景のように馴染んでいこう、地域の方々の輪にもっと溶け込んで行こうと、オモニ達の心も一つになりました。
そして、改めて、公園では火気を使わず焼肉は校地内ですること、駐車違反は絶対にさせないこと、公園でたばこは吸わないこと等、マナー違反に注意をすることを申し合わせをすることができました。そして、地域の皆さんの理解を得られるように努力しました。

そして、11月1日、バザーの当日は、駐車違反を防ぐため、要所に数人が常駐して車の整理を担当し、公園での禁煙や火気厳禁、アルコールを飲まないなどの課題を実現することができました。
バザーには、マンションの管理人さんも来てくださっていたようで、後にお礼にあがった時に、「こんなんやったら全然問題ないね。キムチを買ったよ。」、「子供らはなんも悪いことはない、あんたら父兄が、ルール通りに使ってくれたらええんです、子供らはほんとにいい子ばかりや、きちんと挨拶もする子ばかりや。」「掘り出しモン買ったって、近所の人も喜んでたよ。」と仰って下さいました。
地域の方々に学校や子ども達の様子を見ていただけたこと、そして偏見を乗り越えて地域のご理解を得られたことがとても嬉しく、準備にあたってきたオモニ会のメンバー達は管理人さんの前でわんわん泣きました。
このように努力して、少しずつ地域との関係が良い方向に動き始めた矢先に、12月の在特会事件があったのです。私たちオモニ会は、精一杯気持ちを込め、丁寧に繰り返しお互いのあり方を考え、思考と手間を積み重ねた結果、ようやく地域と新たなつながりができ、住民の方々にも理解が得られ、応援してあげようか、という機運が芽生え始めていたところだったのです。在特会の心ない罵声を直に聞き、ネットで見ることで、偏見や誤解や面倒なことを避けたいという気分は瞬く間に広まり、学校や子ども達のために頑張ってきた私たちや先輩たちの努力や苦労が、全て、水の泡になってしまったように感じます。

5 12月4日のこと

何日のことだったか忘れましたが、11月の終わり頃、私たちは、11月21日に「在特会」と名乗る集団が総連京都府本部前に押しかけたことと、第一初級学校に来る予告をしていることを知りました。その後、ネットの動画で、公園で高速道路工事の警備員さんがインタビューを受けているのを見ました。
私は予告を見て不安に思ったのですが、いくら在特会とはいえ、まさか子どものいる前であまり乱暴なこともしないだろう、と思っていました。学校で集まりがあり、どのくらいの警戒をしたら良いだろうかという議論になりましたが、せいぜい2〜3人が来て騒ぐかもしれないという程度だろうということで、在特会が来ても絶対に自分たちからは言い返さないでおこう、何かが起こっても学校には大勢で集まることはしないでおこうというという申し合わせができた程度でした。そして、万が一のことを考えて、南警察署を訪れ、警備の要請もしました。しかし、実際、あの忌まわしい12月4日の事件が起こってしまったのです。警官は何人か臨場しましたが、制止するでもなく、手をこまねいて見ているだけでした。

私は、当日、学校の近くに住んでいる友人から、「在特会が来て、学校が大変なことになってる。」という電話をもらいました。電話の向こうでは、ワンワンと何か聞き取れない叫び声のような音響が響いていました。私は、いくら在特会とはいえ、子ども達を対象に攻撃はしてこないだろうと信じていましたので、この状況に驚愕しました。
申し合わせでは父母は学校には行ってはいけないということになっていましたが、私はいてもたってもいられずに、車に乗って第一初級学校に向かいました。校地に入ることもできず、私は心配で心配でどうしようもなく、学校東側の堤防を行ったり来たりするほかありませんでした。遠くからでも、彼らが拡声器を使って何かを叫んでいる声が聞こえました。そのワンワンという威嚇するような声を聞いているうちに、怒り、焦り、悔しさで気分が悪くなり、胸苦しさで涙があふれてきました。私は、「子どもら、どうなっているんやろう」という気持が押さえられなくなり、結局、私は、車で学校の北門に行きました。先に来ていたアボジ(父親)の一人が、「こっちから入り」と中に入れてくれました。その時には、すでに在特会は引き上げた後でした。
この日はとても寒い日でした。在特会が帰った後に、学校に父兄や卒業生らが次々とやってきました。私は、子ども達を守ってやれなかったという悔しさと、何もできなかった自分を責め、ずっと泣きながらお茶を入れていました。学校に集まった人たちは、皆、呆然としていました。ショックを受けた状態でした。起こってしまった現実にどう対処したものかわかりませんでした。
この日、私は、5年生の娘と、5時頃に一緒に帰りました。在特会が来た時は、娘ら5年生は、みんなでゲームをして遊んでいた所でした。しかし、ゲームがなかなか終わらないことや、先生方がバタバタと教室を出たり入ったりしていたので、何かが起こったんだろうかと不思議に思っていたそうです。教室を出てみたら、2年生など下級生の子らがわんわん泣いていたので、娘ら上級生は下級生をずっと抱きしめて慰めてあげたそうです。

翌日のことだと思いますが、私は、一人で、ネットにアップロードされたこの日のできごとを見ていました。遠くから一部が見えただけで何を言っているのかも聞こえなかったので、私は、何があったのかを確かめたかったのです。荒々しい怒号と口にするのもおぞましい言葉を1時間も聞いていると、吐き気が襲い、動悸もしました。子どもたちが中にいることを想像すると、胸を掻きむしられて、「もう止めて!」と何度も画面に向かって言いました。
そして、画面を通じて、警察は来てくれたけれども、結局何もしてくれなかったのだということがわかり、無力感と怒りの混ざったなんともいえない気持になりました。そのとき、私が動画を見ていた部屋に娘が入ってきて、「オンマ(お母さん)なにこれ?」と聞いてきました。私は、きのうなんかあったやろ、こういうことがあったんやで、と説明しました。
動画を見た娘は、「なんで?」「なんでこんな風になったの?」「なんであの人ら怒ってるん?」「どこに帰れって言ってるん?」と私を質問攻めにしました。そして、「またくるの?」とも聞いてきました。私は、特に最後の質問にはどう答えたら良いのかわかりませんでした。
私は、ごまかそうとしたら子どもは絶対に見抜くから、親として、何と答えたら良いのかきちんと勉強しておく必要がある、事態ときっちり向き合って、しっかりと答えられるようにしなくてはいけない、と決意しました。
12月4日の夜、私は、オモニ達らからのたくさんの電話の対応に追われました。学校も、事情の説明や今後の対策のために集まる日程を決めたりしましたが、現場はとても混乱していました。まさに緊急事態でした。

12月4日を経て、子供たちの中に変化がありました。
あるオモニは、子どもから、「朝鮮人ってわるい言葉なん?」と聞かれたそうです。実は私の娘も同じ質問をしていました。他にも何人かから同じ話を聞きました。子ども達は、差別的な、悪意をこめた「朝鮮人」という用法があることを全く意識していないので、理解できずにぽかんとしてしまうのでした。オモニ達は、親として何と言って説明したらいいのかとても困っていたのです。「朝鮮」という言葉が差別的な意味合いで使う人がいることを教えるべきなのか、悩みました。本当は、そんなことは教えたくないのです。
在特会の事件があってから、娘がスーパーで「オンマ!」と呼びかけるのを聞いて、思わず「『オンマ!』と言わんといて、危ないから。」と思ってしまう自分がいます。自分の国の言葉をのびのび使う子どもに育ち、嬉しいはずなのに、私は、思わず娘の口を覆いたくなるまでに追い詰められていました。娘に、外ではお母さんと呼びなさい、ママと呼びなさいとも言えません。自分の心が負けたら子供の心もぶれると思い、いつも葛藤があります。
在特会事件の後、子どもに携帯GPSで安否確認できるようにしたオモニもいます。学校に着いたらオモニのほうにお知らせが必ずくる携帯の設定になっています。このオモニは、仕事の関係で子どもより早く家を出なければならないので、職場でこの通知を確認するのが日課になってしまいました。
また、制服の上に、ジャケットを羽織ることを許可してほしいといったオモニもいます。学校の制服は、「朝鮮第一初級」と書いてあるエンブレムが着いているので、通学途中に何かあるかも知れないと不安に思ったのです。しかし、私たちは、子ども達に、いつも、朝鮮人であることと朝鮮学校に通っていることは胸を張っていいことなんだ、誇らしいことなんだと教えています。それなのに、登下校の時にはエンブレムを隠しなさい、隠さないと危ないのだということになれば、子ども達はどのように受け取るだろうかと、オモニ達は真剣に悩んでいました。
ある時などは、学校の近くのコンビニで暴行事件があったということで、一斉メールが流れたこともありました。これは在特会とは関係なかったことが後から判明しました。しかし、子ども達に危害が及んでからでは遅いので、このような場合、何か不審な徴候があれば常に在特会と結びつけて対応を考える必要がありました。オモニ会会長という責任もあって、普段から常にぴりぴりと神経を張り詰め、何もないときでも不安で、気持ちが完全に休まるようなことはありませんでした。
在特会メンバーを実際に間近で見てしまった子のオモニから、「子どもが、もう外で遊ぶのはいややと言っている。」と聞きました。遊びたい盛りの子が、公園で遊ぶことを怖がったのです。学校の中でも、事件後に公園でビデオを撮られただとか、変な人に声をかけられただとか、子ども同士でいろいろ話をしているようでした。しかし、親に心配をかけまいとして、子ども達は全てを親に話すわけではありません。
先生方も12月4日以降は大変でした。本来の仕事以外のことで、言葉で言い尽くせないくらいたくさんの手間を割かなければならなくなりましたし、不安の持って行き場がない保護者達の不安を受け止めなければならない立場になりました。本当に大変だったと思います。

そもそも、第一初級学校と地域との間に発生した近時の問題は、話し合いを積み重ねれば解決できるはずの問題だったのです。けれども、在特会は、長い間かかって築いてきた私たちと地域との信頼関係を、むちゃくちゃにしてしまったのです。地域の方々に、朝鮮学校は、在特会のようなややこしい人たちを招くところ、と思われかねません。ここまで、多くの先人達の努力により、地道に、地域との関係を作りあげてきたのですが、それが一瞬でガラガラと音を立てて崩れていってしまったように感じました。


(続く)


                                 

第16回口頭弁論傍聴記 4


B氏主尋問続き)



◆証人がどのような思いで教師をされてきたかについて尋ねる。陳述書で「ここでは、「〇(本名苗字)」という表札が掲げられていたこともあってか、日本の幼稚園でいじめにあっていた」こと、それから「小学2年生のときに「あ、自分は朝鮮人なんだ」と「納得」した」ということを説明している。この「納得」というものがどういうものなのか、少し詳しく説明してほしい。
親戚で朝鮮学校に行っているのは僕だけで、幼稚園から朝鮮の幼稚園に転校したときの変化というのが、あまりわからなかったが、制服を着て学校に行き朝鮮語を習っているが、テレビを見たら日本語だし生活基盤は日本だ。だが2年生の時に違いを感じたのは当時、自分は制服で通っているが他は私服で行っているとか、そういう単純な何故かなという疑問があった。それがふと、あ、朝鮮人だからと腑に落ちたというか、誰かに教わるのではなしに、違いを感じた瞬間、自分で理解できるという土台があったのでわかった。途中まで自分は何人なのかという感覚すらなかったが、そこからは朝鮮人だからとの行動の違いができた。違うというのが別に悪い意味でなしに朝鮮人として学んでこういう事をしていこうと、2年という時期に自分の中では覚えている。

◆自分は朝鮮人なのだと違いを理解できたと。そういう納得の感覚のために朝鮮学校はどういう役割を果たしたのか。
日本の社会と朝鮮の社会という二つの社会を知っていたので、その時に、あ、こっちなのだという選択肢というか、こちらの社会を知っているというのがあったというのが大きかった。使っている言葉とか出会っている人だとか、歌、衣装、服、チョゴリとか、そういった経験が、10歳にもなっていないが、その時に自分の経験があったので、自分は朝鮮人なのだと、自分の中で自然に受け入れられたというのを持っている。

◆二つの社会を知ってというのがあるが、自分は朝鮮人だと理解、納得というか、そういうのは朝鮮人の家庭とか友人で得られるものではないのか。
知識とか、わかるというのはできると思うが、自分が理解するとか納得するには、基盤が必要だと思う。

◆その基盤というのは、陳述書にある、朝鮮学校が自分にとって重要だと言われているが、家庭とか友人との関係と違って、朝鮮学校という空間が必要であるという理由を説明してほしい。
学校に行くと友達がいて先生がいて、社会がある。決して大きな社会というものではないが、家庭よりも大きな社会であり、共有している文化、歴史がある。そこにいる時に、朝鮮人の一員なのだと。大多数から孤立した個人ではなしに、自分はこの社会の一員であると、それを感じるには、多数の場(学校)が必要だと思う。日本学校からの転校生がいるが、そういう子を見て特に思うのは、来た時の目の輝きとか、朝鮮語を教えたと時の吸収力の強さとか、そういうのを見ると、理解をしていっているなと思う。

◆そういう場が朝鮮学校というが、証人はどういう思いで教師をしているのか。
僕は2年の時に朝鮮人と気づいて、朝鮮学校を卒業し、社会人になる時に一番感じたのは、親に感謝をした。実際、朝鮮学校に入れるのはしんどい。自分がそうだったように、日本に住んでいるが、朝鮮人である事を否定せずに、自分が朝鮮人である事を認めてほしいと。できる事は全部しようとやっている。今回の事件があった時には、そういうのが凄く求められた、本来できる事ができなかった事もあるし、早く解決したいと、今もやっている。

◆陳述書には生徒一人一人が、自分の存在を納得して、そして日本社会でどう暮らしていくのかを選択してほしいとあるが、その選択をするためにも朝鮮学校で民族教育をする必要があるいう事か。
はい。

◆先ほど、親御さんの話で、朝鮮学校に通わせるのはしんどいと言ったが、それは具体的に。
国の援助がない状態で、日本学校に比べれば設備を劣っているし、保護者の方たちも大変で、遠くから送迎し近くの日本学校と比べ大変だ。給食もないのでお弁当作ったりとか、具体的に小さな事から大きな事まで、それでも一生懸命、学校をというか次の代を朝鮮人としての気持ちを伝えてあげたいという思いだ。

◆ただでさえ、朝鮮学校に通わせるのは大変な事だけど、今回の事件をうけてもっと大変になったという事か。
はい。

◆公園使用について尋ねる。公園使用については、元校長氏の陳述書に詳しく書かれているが、証人の陳述書は読んだか。
はい。
(公園使用状況についての経過も書かれており、経緯内容は原告第三準備書面と同じ)

◆内容は間違いないか。
はい。

◆陳述書にでてこない事として、公園使用者と学校児童の公園使用が重なることはあったか。
ほとんど、ない。

◆どういう風に使っていたのか。
午前はそもそも、公園利用者がほとんどいないし、午後は学校のサッカー部が使うけれど使う範囲は北側だけ。遊具は朝鮮学校も他の児童や住民も仲良く使っていた。サッカーチームが北側のグラウンド部分を使う場合には、その都度話し合ってポールで区切って仲良く使っていた。

◆元校長氏の陳述書には2009年6月に、京都市の緑地管理課あてに、怒鳴り込むようなクレームが入ってくるようになったと学校に連絡があったとあるが、その時までは基本的にもめ事はなかったというか。
はい、そうだ。

◆被告側からの主張で、朝鮮学校は崇拝教育をしているのだと言われているが、教科書の中身の改訂について話を聞きたい。
93年、教師になってから教科書が改訂され、2003年にもされている。93年以降は日本に永住するという方針のカリキュラムになった。日本の事が詳しくなったし、文化をもっと伝えようとなった。2003年には2000年の南北会談があり、朝鮮民族が一つになった場合、日本に住んでいるが、各地域の朝鮮人を知る、共有できるような教育になった。

◆その改訂は大きな改訂であったか。
そうだ。時代にあったものだ。

◆証人が見聞きしたもので、地域住民は今回の事件でどういう反応があったのか。
事件後、かなわんなーという声もあり、不審者がいたら通告をしてくれた。だが、街宣が何回も続き、高速道路ができ、公園を整備する時に公園を使っていいかという話になると、なかなか、こちら側の話を聞きづらいというか、言いづらいものになり、関係がギクシャクしていった事もある。

◆理解を示してくれていた自治会の方々も、度重なる街宣等によって、意見を通わせる事もできなくなったと。それは自分たちが、在特会に攻撃されると恐怖があったのか。
そういう住民もいた。

◆最後に、裁判所に伝えたい事はあるか。
一回目の街宣の時に、「ここは学校違う」という根拠で、街宣の正当化するが、朝鮮人が朝鮮の文化を学んでいるという学校だ。それを言いがかりで、言葉の凶器となっている。それが教師にも残っているし、子供たちも引きずる。この事件がずっと終わらない状況にあり、積み重ねてきたものが崩れ、影響が出ている。孤立した学校ではなしに、公開授業もしている。悔しい思いをしている。この間、本来、子供たちのためにできていた事ができていない。見守りのため、安全のために時間が割かれている。公園もなかよく使っていたのが一切使えなくなり子供たちも卒業していった。二度とこういう事は起こらないとしてほしい。早く終わるようにお願いしたい。


原告尋問交代。


◆公園が使えなくなったというが、それは違法だからか。
そうではない。

◆昨年の春から、第三初級と第一初級学校は合併したが、このいきさつはグラウンドが使えなくなったからそうなったのか。
それもあるが、グラウンドがないという中で新校舎の目途がついたというのが一番大きい。だが、本来なら高速道路が建つ時に、高速道路ができたなら下は原状どおりだという話だったのが使えないというのがあった。

◆訴えの変更で、(新校舎地図、新校舎図面を示し)周辺には建物がない。ここで街宣が行われたらどうなる。
そのまま聞こえる。

◆この範囲の街宣行動は禁止してほしいと。
はい。

◆先ほどのAさんの尋問で、この学校は何もない、手作りの学校だというのがあった。例えば第三初級への引っ越しは、教職員とか保護者総動員でやったのか。
そうだ。卒業者もいるし、小学校を卒業した中学生も手伝うわと来て、トラックも保護者から使ってくれと使用させてもらった。

◆自分たちの力というのは、やはり国からの援助のないところで、できるだけ自分たちの力でやろうという事か。
はい。

◆被告らの書面で、朝鮮学校は総連の指示がある、共和国の上層部の指示があるのだと言われているが、そのような指示の元なのか。
そうじゃない。

◆現場レベルの判断か。現場レベルの判断で、その時その時動いていたという事か。
そうだ。


以上、原告側主尋問終了。



被告側代理人による反対尋問。


在特会HPで街宣を知ったというが、サッカーゴールとか朝礼台が置いてある事を問題にしていた。
はい。

◆被告らが言っていたのは、これは違法で不法占拠だと言っていた。それが本当かどうか学校で調査したのか。
その段階で、緑地管理課と話しており、撤去するという事になっていた。

◆何故、撤去するのかについては知っていたか。
何時の話か?

◆不法であるから撤去という話ではなかったのか。
そういう話ではなかった。

在特会が言っている不法占拠であれば、この違法の状態を解消すれば街宣がなくなると思わなかったのか。
予告を見たら、50年間の不法占拠と言っている。町内会長さんに、事前に学校、住民、行政で合意していたのを確認した。学校側はそれに基づいて使用している。そのような理解があると使用していた。

◆現状が違法だという認識はなかったという事か。
そうだ。

◆現在、在特会の街宣に備えて、学校の見回りとかはやっているのか。
登下校はしている。

◆事件があった当時、保護者も含めしばらく見守りをやっていたというが、今もやっているのか。
保護者の合流はやっていない。

◆それは、今は危険が減ったという事か。
減ったというよりも保護者の負担があるから。終わったとは思っていないので常に危機感は感じている。

◆他の(朝鮮学校も)見張りや見回りをやっているのか。
それは、自分は違うので知らない。

◆合併した学校では、第一初級学校と同じような見張りをやっていいないというわけか。
はい。

◆この裁判では緑地管理課の刑事事件の調書とか、被告側からも証拠として出しているが、それは目を通したか。
見てない。

◆今回、元校長氏の陳述書では、何故、略式命令を受けたのかとあるが、その辺りの事は納得しているのか。刑事処分を受ける事になったのは納得しているのか。
納得というよりも、私は公園を使う事に関しては、(学校、行政、住民の三者)協定にしたがっているし、撤去についても緑地管理課と相談しながら、グラウンドが狭くなって、他にグラウンドも探して相談をしていた時に、そういう話があったので、結果的に略式起訴という事になったという事はその時にわかった。

京都市の考え方や、警察における元校長氏の供述とか、そういう事について、皆さんで検討した事はあるのか。
供述とか、どういう事なのか?

◆警察で話した事。
こういう事を話すと、事前にか?

◆元校長氏から、こういう事になったという話はなかったのか。
はい。

朝鮮学校が移転するという事で、新聞に書いてある事だが、その理由が周辺住民から運動場の使用を問題にしたり、或いは火を使ったり酒をだしたりといった事の改善がないから問題になったと聞く。そういう事はないのか。
一人そういう方がおられたが、バザーには地域住民の方もこられていたし、高速道路の建設で(敷地が狭まり)こういう問題が起こった訳で、それ以前はなかった。在特会はジャングルジムを外したというが、うちではない。工事が終わったら(公園利用の)新たに相談しようとなっていた。バザーの時は12月の年末でルール作りをしようとしていた時だ。事件が起こってそれらが全てなくなった。地域の住民がそういう風にいったというが、そういう事もない。在特会がきてかき乱されて平和に使っていたのが使えなくなった。

◆地域住民といっても多数の人がいる、それら全員の了解を得ていたとか全員が反対していたとかはないのだが、地域住民とのコミュニケーションというものが昔に比べて取りにくくなったのか。
住民が変わったという認識はある。

(裁判長:街宣前の事か)
◆街宣直前という事で。
直前はバザーの時に苦情があったというのは知っているが、そちらの方とは今年については準備をしたのでやらして下さいと、来年からはおっしゃるようにしますのでとしていた。準備をして(バザー日の)一週間を切ってからからきた。

◆緑地公園課からバザーはやめて下さいと言ってきた。急に言われてもというのはわかるが、緑地公園課は了解したという事ではないと。
最終的には地域の方の理解を得たという話だ。住民らも変わったので、そういう人らに説明をしていこうという気持ちでいた。

◆それが充分に当時できていなかったというのは事実か。
そうだ。ただ、古くからいる方らは、(公園使用の理解を)そうだという人らもたくさんいた。

朝鮮学校については、北朝鮮について日本人の見方が厳しいものになったという事も関係していると思うが、それはどうか。
どういう事か。

拉致事件を認めた前と後では朝鮮学校に対する風当たりは違うものがあるのか。
今度の事件に関しては、拉致とかというよりも別のものを感じる。(被告らが)言っている事も嘘で朝鮮人を否定している。

◆ただ、街宣に中にもあるが、「ここは学校じゃない」の理由の中に、個人崇拝の思想教育をやっているのだという批判をしている。そのような批判は彼らだけではなくて、新聞や本の中で元総連出身者からも出ている、その点を証人はどう思うのか。
そういう学校なら、わざわざ遠いところからこない。そういう教育をしていると思うのか?授業とかをご覧になっているのか?

◆私に聞かれても困るが、多くの人がそういう疑惑をもっている。
多くというか、マスコミ、一部が出版とかで言っているだけで、学校を支える会もおられるし、うちが付き合っている日本の学校はそういう認識はない。教育者として係る人らにもそのように聞かない。一部の間違った情報もあると思うが、大多数とは思わない。

◆一つの例として、元朝鮮大学の教員が書いた新書「朝鮮総連 その虚像と実像」の後書きに「朝鮮総連の偽装宣伝のせいで正しく理解されてない点がある。この宣伝を信じて擁護を訴える日本人もいる。しかし、その実態は金正日金日成崇拝を核とした、北朝鮮国民教育であり、純粋な意味での民族教育ではない。在日朝鮮人はそういった教育ではなく、一つのアイデンティティを継承しながら、日本と世界で能力を発揮できる、本当の意味での民族教育を求めている。世界が求める民族教育の権利を主張するために、朝鮮総連の教育を一日も早く糺さねばならない」と書いてある。これはまったく出鱈目か。
それは(著者は)何時の方か。

◆1941年生まれだ。
70歳くらいの方。何時まで教師されていたのかわからないが、僕は90年から教師をしているが、僕の経験ではそういう事はない。

◆現在、高校無償化の対象にするかどうかの懸案事項がある。砲撃事件でその手続きが中止になった事がある。政府は朝鮮学校北朝鮮との間に関係があると思ったふうに・・。

(原告代理人異議あり。意見の押し付けではないか。)
(裁判長:政府がどう考えているのかを代理人が推測するはいいが、それを尋問でぶつけるのは混乱を招くので制限する。聞きたい事があるなら違う形で。)

北朝鮮政府と朝鮮学校は、何ら結びつきはないと証人は言うのか。
歴史の中ではそうだが、今はそれほど。

◆かつては教室に金正日金日成肖像画があったと聞くが、今はないのか。
ない。

肖像画ではなく絵があるとも本に書かれているが、それはどうか。
それはある。

◆基本的に教育は朝鮮語を使っているとある。教科書もそうか。
そうだ。

◆確認だが、提出されている「社会」の教科書であるが、日本語になっている。
実際は朝鮮語で書いてある。
(証拠物は、証拠として判りやすいように日本語に翻訳したものが提出されている)


被告側尋問者、八木氏に交代。


◆朝鮮学園理事長のCさんは、3回の街宣時、現場にいたのか。
そこは記憶にない。

◆12月4日はAさんがいたと。
12月4日はいなかったのではないか?

◆緑地管理課担当と元校長氏のやりとりを詳細には聞いていないのか。
逐一には聞いていない。ただ、バザーの前後にはそういう話があったのは聞いている。

◆緑地管理課担当が(刑事事件検察調書で)「学校が使っている時に他の人が使おうとしてもめた事がある」と書いてあるが、

(裁判長:時期は何時か?)

◆平成21年5月18日15時に要望があり、その時のメモだと。
聞いてない。

◆確認したかったのは、学校の指示でそういう事があったのかだが、多分、指示じゃないと。
はい。

◆3月28日のデモ行進の時に、我々の見方だが、朝鮮学校の関係者が妨害しにきたのだと。我々の主張からすると誰も止めようとしなかったという風にうつった。
誰が誰を?

(裁判長:何を聞きたいのか?)

朝鮮学校関係者は止めようとしたのか。
終始一貫、学校のスタンスは、警察に止めてほしいというもので、同じ土俵にたって暴力には暴力にというものではない。僕らは止めていた。28日は保護者らも念のためにと出ており、(200mの仮処分規制に)入ってこられたので感情が出た。僕は止めに入った。

◆どうすれば解決できたのかと、我々は街宣という手段を使ったが、朝鮮学校としてみれば、どういう対応でこられたら解決というか話し合いに応じたのか。
え?

(裁判長:公園使用の問題で?)
◆そうだ。
(裁判長:本来は誰が使ってもいいのだが、排他的に物を置いてというのは違法だと。それを解決するには、学校側としてはどういう対応が考えられたのかという質問か。)
◆そうだ。
(裁判長:学校側は違法だという意識がなかったと言っている。)
◆例えば、在特会の予告があった。在特会はどのような対応をしていたら解決に導けたのか。
(場内ざわめく)
(裁判長:質問として答えられたら答えてもいいが・・)
そのような考え方を理解できなかった。
(裁判長:今のは答えなくて結構だ。在特会としてみれば、こんな風にしてくれたらやめたのにと言ってもらわないと答えられないだろ。それをせずに相手に答えを求めてもチンプンカンプンだ。今の質問は制限する)

ゴールポストは寄贈されたものというが、寄贈された段階で何処に片付けるつもりだったのか。
毎回か?

(裁判長:もし公園に置かなければ片付けるとこはあったのか)
中庭しかないが、物理的に二つはおけない。

朝鮮学校は普通の学校だと主張するが、朝鮮学校労働組合はあるのか。
ない。

◆ないのに普通の学校だという認識なのか。
(裁判長:ないと言っている。次の質問は制限する)


被告代理人に交代。


◆「社会」で総連について教えているが、民団(韓国民団)については教えているのか。
教える事はしていない。

◆教科書には「総連は今日までいろいろな活動を通して、同胞の生活をたくさん助けました。だから在日同胞は総連を祖国に代わる母のふところだと言っています。総連は日本で民族と祖国を愛する運動を繰り広げ、同胞の為に奉仕しており、真の同胞の組織です」とある。総連に対する批判がまったく述べていないが、こういう教科書で教育しているのは間違いないか。
はい。

◆総連に対し批判的な見方があるという事については、子供たちには教えないのか。
(裁判長:学校の教育として、総連に対して批判的な見方がある事実を教えないかという質問だ)
いない。

(裁判長:そういう方針の学校だという事だ。)
◆確認しただけだ。



原告側追加尋問。


◆先ほどの元朝鮮大学の先生の本だが、朝鮮学校ではこの著者が通っていた、昔と今とでは教え方が変わってきているのか。
大分違う。



裁判官尋問。


在特会事件が起こった後の平成22年の4月新入生は10名でいいか。
そうだ。

◆前年から減ったのか
減った。毎年20人弱いるが、その年は10人だ。

◆そのうち日本の幼稚園から入学するのは。
5、6人だ。

◆減ったのは在特会の影響か。
そうだ。募集をかけていた時期に、このような事があり、危険なとこというイメージがつき躊躇する人らがいた。


以上。尋問終了。



この後、次回3月13日の予定確認をしてこの日の口頭弁論終了。

第16回口頭弁論傍聴記 3


証人:当時、学校教務主任であったB氏。



原告側主尋問。



◆12月4日の街宣。在特会のホームページに街宣を予告する動画がアップされたが、その予告は校長から聞いて知ったのか。
そうだ。

◆予告動画を見てどのように感じたか。
それまで、聞いたこともない会、動画をみて下見などがあり、本当にくるかもしれないと実感。どう対処するのか真剣に考えた。

◆どう対処というのは、子どもたちへの影響の不安があったという事か。
そうだ。

◆不安を抱いたという事だが、陳述書によると、11月25日に校長や教師5名で会議を開いたとある。
とりあえず南警察に事前申請をして、地域の関係者団体に連絡をとり支援要請を行う。保護者に対しては何人かには知らせたが、まだ来るかどうかわからなく、事前に知らせれば混乱もあるかもしれないので学校で対処するように決めた。

◆学校の対処はどのようなものか。
学校に入れないように門を閉じて、女性教員は遠い教室に子どもたちを移動させてカーテンを閉めて見せないようにして待機させる。男性教員は街宣の様子をビデオ撮影、挑発には乗らず抵抗をしない。警察が来たら解決してくれると思うので、それまで我慢するようにした。

◆それを確認したという事か。
はい。

◆陳述書によると、職員会議後すぐに当時の校長が、実際に南警察署へ要請に行き、証人も町内会長に挨拶をおこなった。
そうだ。
 
◆そして12月4日午後1時頃、在特会が実際にやってきて今回の事件を起こしたが、その時間帯、幼稚班は課外保育で校外に出ていた。
はい。

◆初級部1年から3学年はどこで何をしていたか。
各自の教室で昼食をとっていた。高学年は交流会があったので講堂にいた。

◆1年から3年生の教室は何階にあるのか。
2階だ。

在特会が来た南門から順に何年の教室があるのか。
一番南が1年で、2年、3年の順だ。

◆高学年は京都朝鮮第二初級学校、京都朝鮮第三初級学校、滋賀朝鮮初級学校との交流会をしていたと言うが場所は3階の講堂か。
そうだ。

◆3年の子供で聞いた話はあるか。
水道が校舎の中になく、外の中庭にある。そこで歯磨きをしていた子がおり、(在特会に)声をかけられた。

◆その水道は校門から5メートルくらいの距離にある水道か。 
はい

◆はじめに在特会がやってきたことに気付いたのは誰か。
当時の校長だ。

◆ 証人はそれを聞いてどうしたのか。
急いでビデオカメラをもって南側校門に行った。

証拠写真で当時の位置、児童がいた事を確認)

◆撮影をはじめてその後はどうなったのか。
徐々に相手が騒ぎだし、だんだんと声が大きくなり怒号をあげはじめた。

◆他の教員たちはどうしていたか。
怒声を聞きつけて、上の階から男性教員が降りてきた。

◆相手方は怒声をあげたというが、どんな言葉を覚えているのか。
「学校が土地を不法占拠している」という発言と「スパイの養成学校」など差別的なものだった。

◆被告らは、いわゆる「抗議」だ、という説明をするが、実際に被告らの発言を聞いていてどう思ったか。
子ども、朝鮮人に向けられている。「キムチ臭い」「端を歩いとけ」など侮蔑的な発言で、ずっと1時間にわたり言っていた。

◆そのようなひどい暴言にさらされながら対応にあたっていたが、そのときの気持ちはどうだったのか。
とりあえず校長が警察に電話してくれたので、警察がくれば阻止してくれると思い、警察がくるまでの辛抱だ、子供たちの安全を守るんだと思っていた。

◆実際、警察は来たか。
はい、10分くらいで来た。

◆警察はどのような対応だったか。
来たのだが、止める気配はなし、言う事に関しては止める事はできないとして止めてくれなかった。

◆証人らは彼らの発言に対して何か言い返したりはしたか。
事前打ち合わせのとおり、言い返しをせずに我慢していた。

◆騒ぎを聞きつけた保護者の中には我慢できず、言い返そうとする保護者に対してどうしたか。
そういう方もおられたが、気持ちはわかるが我慢して黙ってとお願いして、それを止める役割をした。

◆そのときの思い。
悔しいだけだ。

在特会は、さらにエスカレートしてスピーカー線まで切断し始めたが、それをどう思ったか。
言うのを止められないと言うが、これはさすがに警察も止めるだろうと思ったのに止めなかった。ショックを受けた。この時点で、彼らがすべてやりつくすまでただ耐えるしかないのだと思った。

◆そうして、彼らもどんどんどんどんエスカレートし、テンションがあがっていき、最終的に街宣は1時間ほど続いた。1時間をふりかえって思うことは。
正当な話し合いなら抗議も聞くが、警察が来ても止めることはできない。残念な思いもしたし、つらい思いをした。逆に、またこういう事があったなら、自分らで守らなくてはいけないと感じた。

◆生徒たちの様子について尋ねる。男性教員は南側校門で対応にあたっていたということだが、校舎内は、生徒たちと女性教員がいたと。どんな対応をしたと聞いたか。
3階講堂の高学年は、窓とカーテンを閉めて見えないようにしたようだ。スピーカーの音量を最大に、トイレに行く間に怒号を聞かれないよう、トイレに行くのを我慢させたと聞いている。低学年、特に1年生は校門に一番近かったので、2年生の教室に移動させ、3年生は歯磨きもいかないでいいという事にして、本を読ませたりゲームをした。

◆そのように、子どもたちに見せない聞かせないために対応をしたということだが、その対応によってこどもたちへの影響は完全に防ぎきれたか。
いいえ。教室に近い距離だったので、声が聞こえていたようで、3年生のこどもの中には、水道のところで在特会から「いいもんあげるから門あけて」と変な人に声をかけられた。そういう騒ぎがあって、誰か来たの?と恐怖もあって、段々と伝染していき、なんで自分の誕生日にこんな目に合わなければいけないのと言って泣き出す子がいて、それが広まって学年全体が泣き出したようだ。また、高学年は本来予定していないような先生の動きや漏れ聞こえる怒号から、異常事態と察していた。

◆そのような生徒の様子をうけて、貴方はどんなことを懸念したか。
ともかく子供たちが傷を負ったというか、学校はそういうとこじゃないのに、子供たちに怖い思いをさせた。すぐに去れば、警察もきて止めてくれたなら。1時間という長い時間、ずっとそういう発言が耳に入ったというか、自分たちが悪いからこうゆう目にあったとされるのが心配だ。

◆自分たちが悪いというのは先生たちの対応も含めてか。
いわれなき罵声を浴び続けられても言い返さなかったことによって、子どもにとっては、自分たちが悪いから、こうゆう目にあっても先生も止めなかったんだ、という自己否定につながる。

◆街宣の様子は動画配信されている。動画について生徒から聞かれたことは。
動画を見たという子が何人かいた。家に帰って実際に動画をみて、何故こんなことが起こったのだと質問を受けた。

◆当時、(5年の担任であったDさんの陳述書を示し)「在特会を目に触れない、聞こえないように必死にガードしたが、動画のアップロードなどで教員の努力は完全に無に帰し、児童に大きな精神的ショックを与えてしまった」とあるが、この点について同じ思いか。
そうだ。

◆街宣は午後2時を過ぎにようやく終わったが、その時点ですぐに、学校運営は平常どおりに進められたのか。
高学年に関しては、食事をとって交流会をして2時前に下校と言うスケジュールだったが、予定が遅れて下校時間が遅れ、帰り道が心配だったので待機させた。幼稚班は、昼過ぎにスクールバスで昼前に帰ってくる予定だったが、帰ってくる状況じゃなかったので、待機させた。また、その幼稚班が乗って戻ってくるバスで低学年も下校する予定だったので、低学年の下校も遅れた。

◆事件後 当日の午後5時半から職員会議を持ったというが、そこで決まったこととして、保護者に説明すること、心のケアのために教員らが聞き取りを行うこと、子どもの安全を最優先する方針が決まったとあるが。
はい。

◆職員会議は、本来そういう会議をする予定の会議だったのか。
いいえ。本来は学校業務の会議であり、入学説明会の準備があり、その役割分担の話しであった。

◆事件当日、保護者からの問い合わせや心配の声が上がったのか。
はい。子供から聞き、保護者同士の連絡がまわってきて、問い合わせの電話がたくさんあった。
◆陳述書にあるとおり、保護者の方に説明のためのお知らせを配布したり、メーリスを作ったり、12月8日には保護者説明会も行ったようだが。
はい。特に高学年の子どもたちには、学校が公園を使用してきた歴史的経緯、相手の人が言っている話し、私たちは何も悪いことをしていない、それ以上に、多くの日本の方々が応援してくれていることを話し、そして公園を地域の人らと仲良く使っていこうという話をした。

◆(E氏陳述書を示し)当時、3年の担任であったEさんは「生徒の様子として、在特会はどんな人?とか、なんで自分たちがこんな目に合わなければいけないのか、日本人ってこんな人たちばかりなのか、他の学校とは仲がいいのに大人たちは仲が悪いのですかという質問がありました。それに対して教師はそんな人ばかりではないと説明し、子供たちが日本人を誤解し、誤ったコリアンとしての意識を植え付けないように教育をした」とあるが、このように教師として配慮したという事か。
はい。

◆子どもの安全対策について尋ねる。まず、2学期終了までの間どのような対応をしたか。
安全を心配しそれが一番大事なので、できる事からしていこうとなり、緊急連絡網をつくり、南門と北門があるが(それまで)門をあけて自由に公園に出入りしたが、昼間も鍵を閉めるようにした。また、インターホンも設置し、それで門の開け閉めを行った。
さらに複数の教員を配置し見守り、通学路は3方向あるのだが、引率の先生も一人から二人とした。

◆保護者の方々も協力したか。
はい。人手が足りないのでお願いした。

◆(証拠物である見守り表を示し)これ以外に付け加える事はあるか。
朝周辺見守りもあったが、下校見守りもあった。

◆陳述書によると、保護者と当番を作り2011年7月まで見守りを続いていた。理由は何か。
12月4日の一回で済めば終わりかなと思うが、その後も街宣が繰り返され、動画配信もされ続けていたことにより、影響が大きいだろうと思ったからだ。


原告代理人交代。


◆12月4日、ずっと言われっぱなしの様子を子供たちに見せるとの影響の話があったが、本学校で行われる民族教育への影響、子供たちへの民族的アイデンティティへの影響について、もう少し教えてほしい。
日本で住んでいるが、朝鮮人として何も悪い事はない。誇りをもつ事を教えている。だから自分の存在を認める教育をしている。被告らの発言はその存在を否定している。それを止める事ができなかったという事は、先生の言っている事は実はそうじゃないのではないかと。学校の前で先生もたくさんいるのに、それを言われっぱなしで先生らは誰一人否定していないとこを見れば、習ってきた事を全部ひっくり返されるものに繋がるのではないかという事もあるし、今度は自分が狙われるのではないか、存在が否定されるではないかというのが憂慮される。

◆(12月4日)街宣後、保護者らが心配して問い合わせがあったというが、その内容はどのようなものか。
子供の安全が第一なので、高学年では電車で通学する子もいる。こういう事を知らなかったという事で、事前に説明がなかったことについて不満もあった。また、緊急に連絡を回してくれれば迎えにいくなら迎えにいったのにという声があった。さらに、彼らはまた来るのか、どのような対策を練るのかという質問もあった。


(休憩が入る)


◆1月14日の街宣について。記録によると2010年1月4日、在特会のHPに、同月14日に、再び第一初級学校に対する街宣を行うことを予告が出ていた。
はい。

◆ 予告を受けて、学校の対応は。
校長と私が協議をした。

◆それを受けて8日に保護者会が開かれている。どのような意見があったか。
安全への心配などがあり、休校にすべきだという意見もあった。また、何も悪いことをしているわけではないのだから、授業を行うべきだという意見などさまざまな意見があった。

◆最終的はどうなったのか。
カリキュラムの問題もあり、できるだけ授業をしようとなり、街宣の前の時間に授業ができるという事で、午前中は授業を、午後は課外授業を行うことになった。

◆8日から14日まで実質4日しかないが。その短い期間で準備はできるのか。
ふつう課外授業などは1カ月くらい前から下見にいったりして準備をするが、ともかくしなければと大変だった。各学年の教員らが手分けして課外授業先を決定し、観光バスをチャーターした。とにかく大変だった。

◆チャーター費用もかかる。どう工面したのか。
理科や図工の教材を安価なものに切り替えたり、キャンプ行事費用を切り詰めることで補った。

◆こうした準備に並行して警察に警備要請をしたり、その対応を協議する必要もあった。
はい。

◆幼稚班は第2初級学校に委託するような形になった。
はい。

◆その準備に追われていた間、本来はどんな業務を行わなければならなかったのか。
新学期の授業準備、2月の学芸会準備等で、体育館がないので借りるとかがあり、1月14日以降に詰めざるを得なかった。

◆子どもたちの様子について尋ねる。子供たちに、課外授業をすることになったと説明はしたか。
はい

◆子供たちの反応は。
子供の中には、何もわからずに喜んでいる子もいたが、大体わかるので、学校から出て行くのはなぜ?わたしたちは悪いことをしたの?また在特会がくるから逃げるのでしょと質問してくる子もいた。

◆それに対してどのように答えたか。
わたしたちが悪いわけではない、逃げているわけではない、でも安全のためには避難する必要があって避難するのだと説明した。

◆ 答えながら思ったことは。
12月も止められなかったのに、また来ると。先生はそうゆうけれど、不安があるし、やはりこちらが悪いのではないか。朝鮮人だからこのような目に遭うのではないかと子どもに思わせてしまうのではないかと非常に心配だった。

◆1月14日、午後2時20分頃、また街宣にやってきたが、学校には校長と証人がいた。
はい。

◆課外活動に出ていた生徒たちは、何時頃帰ってくる予定になっていたのか。
4時くらいに終わると見込んでいたので、4時40分くらいに。5時には保護者に迎えにきてもらう予定だった。

◆ところが街宣は、その後、午後4時すぎまで続いた。街宣終了後、街宣に参加していた人たちは、その場をすぐに去ったのか。
いや、いた。終わる気配を感じなかった。

◆その状況を受けて、課外活動に行っていた生徒たちを引率していた先生にはどのような指示をしたのか。
とりあえず、バスで待機するように指示をした。インターのそばで、安全になるまで待機した。

◆子供たちを乗せたバスが学校に戻ってきたときの学校周辺の様子は。
警察車両や警察官がおり、子供たちも普通じゃないとわかっていたが、物々しい雰囲気だった。

◆この日、保護者が迎えに来る事になっていたのか。
そうだ。迎えにこられないところは、近所の人にお願いして、他は学校で送った。

◆本来ある下校時刻を過ぎて、ようやく下校できたと。
はい。

◆生徒たちの様子は。
幼稚園の子は(普段)2時半に下校しているのが、バスで待機しぐったりしていた子がたくさんいた。

◆保護者の方の反応はどうだったのか。
警察車両が多くあり赤色灯がまわり物々しい雰囲気の中、学校の状況は正常じゃないのだと危機感を抱いた。

◆その後、対応協議したという事か。
はい。

◆3月28日の街宣について。この街宣はネット上に予告されたわけだが、それを受け、 学校の対応としては、警察への支援要請をしたり、仮処分申立てをした。
はい。

◆それで仮処分については24日に決定が出て、新聞報道もされた。このとき証人はどのように思ったか。
ほっとした。裁判所が命令を出してくれている以上、これでやっと守られると。

◆実際には3月28日に街宣が行われたわけだが、この日は、校内ではどのような業務が行われていたのか。
幼稚班を担当する女性教員3名と、サッカー部の試合があったのでコーチがいた。それと何かあってはいけないので、校長と私がいた。

◆この日も街宣が行われることがわかって、この女性教員らについては、どのような対応をしたのか。
危ないという事で帰宅させた。

◆子供たちは、全く学校には来る予定はなかったのか。
この日サッカー部が他校で試合を行っていて、スクールバスだったので学校に戻って下校する予定だった。

◆どういう影響があったのか。
学校に帰れる状態じゃなかったので、九条烏丸交差点で子どもたちを乗せたバスを停車させ、そこで解散せざるをえなかった。保護者にはその連絡をした。

◆保護者たちの反応はどのようなものだったのか。
心配であった。

◆仮処分の内容というのは、半径200mのところまで街宣を禁止するという内容だった。
はい。

◆証人は、被告らが半径200mラインを超えて学校に接近してきたことに、どのようにして知ったのか。
音も聞こえてきており心配だった。200m手前で迂回するだろうと思っていたが、入ってきたので焦ったし、衝撃だった。

◆3度目は、仮処分を無視して行われた。どう思ったか。
期待していたぶん衝撃はとても大きかった。何回も来るという状況が許されている。どうすればいいのか、保護者もずっと心配を続け、自分たちも緊張し続けなければならないのかと思った。

◆陳述書では、ネットで動画を確認した子が事件を知って夜泣きをするようになったとか、女子の中でスピーカーの音が聞こえるとビクっとする反応をしたりだとか、知らない人が公園にいると在特会だと言うようになったとかの様子が出てくる。3月28日以降、証人は子どもたちへのフォローで特に気をつけたことはあるか。
今回の事で子供たちが、朝鮮人として、自分に対して否定的に思わないように説明して、また、自分たちは悪くないと、何かされているがそれ以上にそれに反対する人らがいる事を伝えながら自己否定にならないように、暗くならないように努めている。

◆学校全体の雰囲気で変わった点は。
少しでも変な動きがないか過敏に反応するようになった。明らかに写真撮影していたりとか、ビデオを撮る人らがいたり、そういう人が増えた事で、学校周辺で気が抜けない状態になっていた。幼稚班は散歩とか行っていたが、なかなか行けない状況になり、男性教員と一緒にという事になって不審者がいないか常に注意して見守る。さらに、いたずら電話も増えた。無言からはじまって、あちら側の主張を言うのが何回もきた。一回くると無下にきれないので受けると10分、20分、30分となったりとか、無言電話は切っても切ってもかかってくるので線をはずした事もあるが、やはり学校なのではずせないとなる。大きな支障をきたしている。



(次回に続く)

第16回口頭弁論傍聴記 2


原告証人尋問続き。



被告側代理人反対尋問。


◆証人は在特会HPで襲撃予告を見て、被告らが、朝鮮学校が公園を不法に占拠しているという主張だったと。
それは意見が異なる。

◆調査を踏まえてここは不法占拠だと主張したのは知っていたか。
主張したのは知っている。

◆学校で協議をしたと言うが、在特会のメンバーが言う公園の不法占拠という事実は本当だろうかという観点からの協議はなかったのか。
その時はなかった。

◆では、彼らが本当か嘘かわからないままの協議だったのか。
いえ、その時は、不法占拠か否かというそのものの話はなかったという事だ。

◆では、不法占拠かどうかを議論したのは何時ごろか。
私個人が、それが話に出るようになったのは、恐らくこの案件の刑事裁判の過程においてだ。

◆逮捕は8月なので、3回の街宣が終わり、保護者としてはその後という事か。
私がそれを担当したとか、直接、調査した事はない。

◆陳述書で学校の先生と協議したりという場面が出てくるが、不法占拠の調査は特に相談しなかったという事か。
個別に何かした事はない。

◆学校の中で、弁護士や先生の中で協議した事はないのか。
間接的に聞いた事はある。

◆何時ごろ。
8月の被告ら逮捕以前に、学校にも取り調べがあり、その過程ででてきた事がある。

◆それまでは、公園に置いてある朝礼台とかは、問題になるのだという認識はなかったという事か。
それは校長先生が略式命令を受けた過程で、京都市から連絡を受けたと聞いたが、具体的な内容は知らない。

◆では略式命令の経過の話を聞くまでは。不法占拠かどうか、特段な話は聞いていないという事か。
特段なとはどういう意味か?

◆(在特会)HPを見ているから、あそこにゴールポストがあり朝礼台があるという事が問題だとは知っていて、彼らが言っていたのは知っていたと。
彼らは言っていた。

◆そこで彼らが言っていたのは本当か嘘だろうか、そういう事について協議しなかったのかと訪ねている。
先ほども言ったが、刑事事件の過程の中で、苦情が来ており、2010年の1月に撤去するという文脈で知った。

◆何回も重複するが、サッカーゴールを置いているのが不法占拠に当たるかどうかという協議をするというのは、学校の中でも弁護士からも協議したというのをご存じないという事か。
はい、ない。

◆結果として取り調べを受けた校長先生が、一定の期間であるが不法占拠を認め、略式命令になったのは知っているか。
不法占拠という事か?

◆不法占拠という言葉には確かに教唆的なものも含むが、都市公園法違反で処罰を受けたのはご存知か。
はい。

◆その事について、保護者としてはどのように感じるのか。
私個人としては、戦後ずっと朝鮮学校が不法占拠してきたという事で、校長が略式命令を受けたとは思っていない。

◆しかし、都市公園法違反で略式命令を受けた。その事についてはどう思っているのか。
その件は、この事件と関連しないと思っている。

在特会の人らは、不法占拠だというのを大義名分にしていた。
はい、彼はしていた。

◆それを撤去する事で奪還すると街宣をしてきた。実際、それを置くことが不法と後で確認された。
それは校長先生が略式命令を受けるに至って知った。

◆それは在特会側の主張の一部で、直接的本質な部分ではないと言われるかもしれないが、それには理由があったと思わないか。
いえ。先ほども言ったように、彼らが言う、戦後から不法占拠し続けたという事と校長先生が京都市からの連絡を受けての話し合いと別次元であると認識している。

◆証人は在特会の街宣のために保護者の協議の場に参加したか。
子供たちの不安を取り除くために保護者で相談した。

◆子供たちを守ろうと、それで対処していたという事でいいか。
学校内部、周辺ではそうだ。

◆そういう協議は何時までしていたのか。
何時まで?

◆例えば3回目の街宣の後もしたのか。
3月の対応の反省も含め、4月に行った。

在特会のメンバーが8月に逮捕された。その時期にも協議したのか。
刑事裁判のために何かを(対応のための協議)したというのは私個人はない。

◆子供たちの心配と恐怖、それから子供たちを守るための対策のために話し合ったというのはないのか。
話し合いになるかどうかわからないが、それにまつわって弁護団に講師にきて頂いて講演を開いた。

◆本件学校は、昨年の4月に休校する事になった。
はい。

◆休校の原因は何だったのか。
私が聞いているのは、できるだけ新しい学校ができる前に、学校統合に慣れさせると聞いている。

◆地域住民からの苦情が、在特会の街宣以降も出ていたとかはなかったのか。
具体的には知らないが、幾つかあるというのは聞いた。

◆いま、お子さんが言っている学校が変わったが、見守りとかは続いているのか。
留学していたので、今はわからない。

◆自身がやるという事はないのか。
今年度、そういった行動は、私はしていない。

◆先ほど原告主尋問で、子供を学校に通わせる経緯を聞いていた。言うように日本において、民族的なアイデンティティ育んでいく民族教育は、私たちも必要だと思っているが、現在の朝鮮学校の民族教育というものはどういうものだろうという疑問があがっているのは知っているか。
批判をする人もおられると。

◆証人はそれにどのような意見があるのか。
本件と関連するのか?

◆街宣の中で、朝鮮学校の教育が問題であると、個人崇拝の教育が行われていると発言している。その事に証人はどう感じているのか。
私は、朝鮮学校に通った事はない。その限りで私はなんともいえないという事と、私の子供が直に接してみて、南北朝鮮の話しもするし、学校の話しもする。そういった限りでは、今言ったような印象はない。

反対尋問以上。



原告側追加尋問。


◆陳述書別紙を示す。証人はこの一覧表を見て確認した事はあるか。(見守りスケジュール表など)
はい、ある。

◆これを見ると、3月28日以降もずっと6月まで行われている。
はい、されている。

◆8月の逮捕以降もされている。
はい。

◆逮捕されたからもう安全だ。見守りは大変だからもうやめようという議論はあったか。
ずっとそれがルーティン化していたので、基本的に続けていこうとなっていた。

◆この見守りというのは、父母の皆さんに、どの程度の負担があるのか。
仕事抜けてこなければいけない人がたくさんいた。ちょうど3時半から4時半の間だったから。多くの人らにとっては負担が大きかった。

◆証人は留学という事で、今は知らないと。
したかったけど、できなかった。

原告代理人交代。

◆地域住民から苦情があったというが、逆に励まされたという事はあるか。
それはいろんな形、行事があるたびに交流があるので、私自身は好意的に受け止めてくれていると、私自身は認識している。

(裁判長:事件の後、好意的な対応をしてくれたという事はあるか)
はい。そういう方もいる。

◆例えば。
大変やなと、学校の先生に言ったりとか、間接的ではあるが聞いた。



被告側より八木氏が追加尋問。

◆Cさん(朝鮮学園理事長)ですか、朝鮮学校の理事長は現場にはいたのか。
(裁判長:どういう観点から聞いているのか)
◆私たちの侮辱発言というか不適切な発言、それを直接、Cさんは聞いたのかを確かめたい。
(裁判長:うーん。質問に答えるならばお答えください)
12月4日でいえば、私も必死だったので、正直、記憶が薄れたというかわからないので、声を聞いたかどうかわからないが、終わった後にはいたと記憶にある。

◆他の街宣では?
その点は記憶にない。

(裁判長:12月4日の街宣の後、お子さんが学校にいくのを怖がったとかいやがったというのは実際にあったのか)
怖がったとか、態度にだしてというのは、私の子供にはない。でも、他のお子さんはあったと聞いている。


以上、A氏尋問終了。