第17回口頭弁論傍聴記 オモニ会会長陳述書2

(陳述書1続き)



6 12月4日の事件の後にとった対策

私は、オモニ会の会長として、事件の後、年内、毎日のように第一初級学校に行きました。もともと事件のあった12月4日のころは、入学説明会、高速道路の説明会など、行事が目白押しだったのです。12月9日には、一般の方もお招きする餅つき大会が迫っていました。
12月9日の餅つき大会を例年のように行うかについて、やはり議論になりました。特に警戒したのは不審者の出入りで、父母も先生方も不安と緊張でいっぱいでした。事件が起こって5日目でもあり、大人たちは、周りの日本人が誰も信用できないような疑心暗鬼の状況でした。けれども、子どもたちは、餅つき大会を前々から楽しみにしていたのです。話し合いの結果、子ども達には、大人がびくびくしている姿を見せるのではなく、困難を乗り越えて行く姿を見せようということになり、例年通りに、広く開放してこれを行うことになりました。勇気を出して1日でも早く日常生活に戻るということを強く決意したのです。
そのような中、ある、日本人の詩人の女性から、餅つき大会に来たいとの連絡がありました。当日、その方は、数名の日本の方と、おおきな花かごを持って来てくださいました。彼女は、目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに、「皆さんは心を痛めないでください。これは日本人の問題です。恥ずかしいことです。」と言ってくださいました。私たち大人は、12月4日の事件があって、この「日本社会」から拒絶され、否定されているように感じていました。そして、自分たちは朝鮮人やからこんな思いするのも仕方ないのかもしれないとも思っていました。けれども、この言葉を聞いて、とても救われた思いをしました。この方の言葉と暖かい心に触れ、オモニ達は号泣していました。

オモニ会の集まりも何度も持ちました。オモニ達はみんな不安で、在特会らがきた時に備えて、どのように対策を立てたらいいのか、子どもたちにどのように説明するべきなのかを話し合いました。その中で、オモニ達保護者が持っている不安については情報を共有し、お互いにできるだけ話したり聞いたりして不安を解消していこう、そして1日でも早く普段どおりに戻ろう、子ども達の笑顔を取り戻そうと話しました。

12月16日には、保護者と先生方らが学校校舎の3階の講堂に集まり、会議を開きました。平日午後に開催したため、参加者はオモニ8〜10名、学校の先生、学園の理事長などで、限られた人数でしたが、みんな必死で対策を議論しました。この時には総連本部からも副委員長さんが来てくださり、保護者や先生方に、子ども達を守りきれなくて申し訳ないなどの謝罪をされました。
この日は、12月4日の前に在特会の人たちが阪神道路公団の警備員にインタビューをしている映像を見ました。アボジの中からは、「あんなこと言う警備員、信用ならん!子どもの安全を真剣に考えてくれるかどうかも不安や。子どもの安全を任せられるのか?抗議してクビにしてしまえ!」という強い意見も出ました。けれども、多くの保護者は、「敵対しても解決しない。仮にこの人をクビにできたとしても、次の人の理解がなければ同じこと。むしろ敵対して嫌悪感をもたれてしまったら、対応はより悪くなりかねない。」という意見を持っていました。そして、周囲の理解と支えををなくしては子どもを守れない、理解を得ることが一番だという意見に、最終的にはみんなが納得しました。
また、この時には、子ども達の感情の安定をどう確保するのか、法的手段をとるのか、国連に訴えるのはどうか、防犯体制をどう整えるかなどについても議論しました。校門は開放しないこと、在特会などの不審者来訪の際の避難訓練をすること、警察等関係各所への連絡を誰がいつするかの段取り、父母の連絡網の確立などを話し合いました。校舎周りにネットを張ってはどうかという意見も出ました。子どもに対する安全教育はどうするべきかも話し合いました。
そんな中、アボジであるAさんが、刑事告訴をすることを提案されました。私たちは、刑事告訴なんか本当にできるのかと、最初は訝しく思いました。私たちには、12月4日に在特会が来た時に、警察は子ども達を守ってくれなかったという苦い思いがあり、警察に対しての不信感がありました。以前、チマチョゴリの切り裂き事件があったときにも誰も罪に問われなかったこともみんな知っていました。そもそも、在日は、長い間、いろんな差別にあってきましたし、外ならぬ警察から民族学校が弾圧を受けた歴史もありますので、自分たちのことは自分たちで守るという考え方が体に染みついていました。私も、本当に、告訴なんかできるのかと半信半疑でした。告訴をすると逆効果になりかねないとして、「また晒しものになる。」、「子供たち晒しものにするのか。」、「これ以上在特会と関わりたくない。」などの消極的な意見もたくさんありました。あるオモニなどは、「なんで、私らがそれをせなあかんのやろ、なんで、私らが踏み台にならんとあかんのか。」と絞り出すように発言されました。
しかし、Aさんは、きちんと闘わないと安全も保たれない、きちんと責任を取ってもらうことが大事だという話を続けられました。そして、私たちにも権利があり、この日本でもこれが平等に保証されるのだという説明をされました。
それまでの議論では、自分たちの未来が見えないことから後ろ向きになりがちであり、ここにいる権利なんかないやん、何の権利もないやん、外国人やから仕方ないやん、などと、自分たちを卑下する内容の発言まで出てきてとても重苦しい雰囲気の中での発言でした。しかし、Aさんのお話を聞いているうちに、私たちにも権利があるんや、権利を認めてもらえるように、新しい所に踏み込んで行かんとあかんのや、と強く思いました。
話し合いの最後のほうで、あるアボジが、「朝鮮学校には、生きる権利もないんか?! 設備もない。人も足らん。けどあるのは誇りだけや。」と発言されたことをきっかけに、その通りや、誇りをを守ろうとみんなの気持ちが一つになりました。このようにして、今回の事件は、子ども達の為に、未来ある民族学校のために、一歩も引き下がらずに告訴をしようと踏み切ることになったのです。

当時は、登下校時の監視や警備など、子ども達の安全確保のために必要となる施策について、詳細な体制は決まっていませんでした。しかし、アボジやオモニの意識はこの話し合いをきっかけに高まり、翌12月17日から、警備のために自主的に大人たちが学校に集まるようになりました。オモニ達は、子どもを守りたい一心で一日中寒い中で立っていました。
そして、年内には、子ども達の一人一人の通学路を調べてもらい、それをリストにして、ペアを組んで駅ごとに警備の人を立て、子ども達の見守りに立つ体制を組むことを決めました。警備には先生だけではとても人数が足りないので、ローテーションを組んでオモニ会とアボジ会から毎日人を出すことにしました。それでも人数の確保ができなかったため、近所の同胞にも手伝って貰うこととしました。1月からは、警備体制をきちんとできる体制を組みました。そのため私たちは、警備に当たってくださる人の家を一軒一軒回り、警備のお知らせを手渡ししてお願いに回りました。
今回の事件後、地域の皆さんと顔が見える関係を築こうということで、地域にある「子ども110番」の看板を掲げている方々の家を訪問してお知り合いになりました。子ども達に対しては、自信を持って、「何かあったら、あそこに行って助けてもらうんやで!」と言えるような関係を作ることもできました。

12月4日以降、子ども達の登下校や、地元で起こる些細な事件・事故に対して、常に緊張を強いられることとなりました。避難訓練を実施したこともあります。普通の児童であれば、通学路は、登下校時に友達とおしゃべりをしながら学校に通う楽しい道であるはずなのです。けれども、その普通のことができなくなりました。私自身、地下鉄の中で娘が第一初級のエンブレムをつけた制服姿で乗ることが不安になりましたし、娘には電車に乗る時はうつむき加減にして人と目を合わせないようにしなさい、私語は慎みなさいと注意をしたりしました。とても辛いことでした。
12月19日にはオモニ達の全体会議をもち、子ども達の家での様子や学校での変化などを聴き取りました。公園に行きたくないという子がいたり、おねしょが再び始まったり、夜泣きをする子どももいました。中でも、事件の時、在特会メンバーに声を掛けられた子のオモニは、泣きながら、こんな事が学校で起きては絶対に駄目だ、と訴えられました。子どものために、親なら誰も持っている感情ですが、とても辛い中での訴えでした。
この他にも、何かしなければならない、という思いは強くありましたが、問題が多すぎて、何をしていいのかが分からない焦燥感でいっぱいでした。何をしていいかわからない状態でありつつも、しかし、私は、第一初級学校のために何かをしなくてはいけない、何でもやらなければならないという思いから、京都市、警察、市民集会など、話を聞いてもらえそうなところにはどこにでも行きました。

7 2010年1月14日前後のこと

 (1) 翌年1月には、在特会から街宣の予告がありました。私の中には葛藤がありました。街宣のある日には、子ども達を学校に居させてはいけないという気持ちと、なんで在特会なんかのために学校という大事な場所から逃げなければならないのか、という両方の気持ちです。
対策会議の中では、アボジたちには、「あんな奴らのために逃げるような形をとるのは不本意や。」という意見もかなり多かったです。しかし、12月4日の事件の現場のすさまじさを思い起こすに、1月14日のデモは、どうやら12月4日よりも規模が大きそうであることから、子供たちを危険にさらすことはできない、また、子ども達が街宣の様子を見て心に傷を負ってはいけないということで、学校の先生方も交えた長い話し合いの結果、1月14日は課外授業を行うことになりました。
急なことでしたので、課外授業といってもどこで何をするのか、対応に大わらわでした。甲166号証は1月9日に配布された学校からのチラシです。まだ行き先すら決まっていないことがわかります。
在特会らのスケジュールは事前に告知されていました。私たちは、街宣活動の終了時間にあわせて、課外活動のバスが戻る時間を設定しました。そして、父母に対し、子どもの帰ってくる5時頃に、できるだけ学校まで迎えに来て欲しいと告知しました。本当は、このような話をすること自体が、とても悔しかったのですが、子どもを犠牲にするわけにはいかないという気持ちで、我慢するほかなかったのです。
(2) 1月14日当日、私は、他の保護者等と、学校の中で子ども達の帰りを待っていました。既に、解散時刻をとっくに過ぎているのに在特会のデモは解散もしていませんでした。子ども達が帰ってくる時間になっても、周囲は、機動隊も出て、装甲車や警察車両の赤い回転灯がぐるぐる回っていてものものしい状態でした。そして、学校の周りでは、大人達のヤジと怒号が飛び交っていました。
私は、「もうやめて!!」と何度も叫びました。子ども達が帰ってくるのに、こんな学校の状況は見せられない、こんなことが学校の周りであってはいけないと思いました。必死で、警察官に対して、「もうすぐ子どもが帰ってきます。」、「こういう光景は子どもには見せたくありません。」、「早く撤収させてください。せめて装甲車は学校から離れてください。」と訴えて走り回りました。けれども、デモは終わりそうになく、学校の前に横付けされた装甲車や機動隊も動く様子がありませんでした。
そのうちにバスが学校に帰る午後5時が近づき、お迎えのお母さんお父さんたちが、車などでいっせいに学校にやってきました。そして、そのような騒然とした状況の中、子どもたちが観光バスで帰ってきてしまいました。子どもたちも、何かとんでもない異常事態があったのだと感じたはずです。
私は、子ども達を傷つけたくありませんでした。在特会を見せたくありませんでした。学校に何が起こっているかを見せたくありませんでした。けれども、結局、子ども達はこの光景を見てしまいました。私は、「いったい、何のために課外授業にしたんや。こんな情景、見せてしまったら一緒やんか。」と無力感でいっぱいでした。子ども達を守りきれなかった悔しさ、そしてどんなに言っても、警察も動いてくれず、在特会らも解散する様子も見えない空しさを感じました。いつまでこんなことが続くのだろうとデモ隊を呆然と見ていると、時折楽しそうに、勝ち誇ったように、学校のあたりで奇声をあげているのが見えました。そして、「朝鮮人は保健所で処分してもらいましょう。」という声が聞こえました。私は、ぞっとして全身の血が引いていくのを感じました。
騒動の中、近隣住民の方が外に出てこのデモを見ている姿を見ました。せっかく、地域の中で受け入れてもらえる雰囲気ができてきたのに、こういう騒ぎになってしまったことから、「朝鮮学校があるからこのようなことが起こるのだ」と地域の人たちに思われてしまわないか、結局、在特会が意図したとおりになってしまったのではないかいう無念さがありました。
後にあるオモニから聞いた話ですが、気丈な3年生の男の子が、普段は、在特会なんかやってきても戦ってやっつけてやる、と元気の良いことを言っていたのに、この日の喧騒を目の当たりにして、「あかん、やっぱりよう戦わん。怖いわ。」と言っていたそうです。このように、1月14日には、学校が在特会から子どもを守るために課外授業をしたにも拘わらず、結局、子ども達が学校の騒然とした様子を見てしまい、心に大きな傷を残してしまいました。

8 2010年3月28日前後のこと

3月にまた街宣があるという告知を見た時には、私は生きた心地がしませんでした。ですから、街宣の直前に、接近禁止の仮処分が出た時には、とてもホッとしました。このニュースは新聞で大きく報道されましたので、オモニ達はみんなで「わーっ」と喜びあいました。私自身は、ほっとした思いもありましたが、1月14日に、警察の解散という声に耳も貸さずに学校の周りをいつまでもうろついていた在特会の人たちの行動を思い出し、彼らは、誰が何を言ってもきかないのではないかという一抹の不安はありました。
3月28日には、私は、仕事で大阪に行っていましたので現場にはいませんでしたが、街宣の様子は、YouTubeの動画で見ました。彼らはとうとう裁判所の仮処分にも反したのだ、在特会であればそういうことはやるかもしれないと思いました。在特会らと、支援者との押し問答の様子を見ながら、私たちの愛する学校が私たちの気持ちと離れて大きな渦に巻き込まれてしまったのだ、騒ぎを大きくしたくないと願っていた私たちオモニの気持ちとはどんどん離れていってしまったのだと思い、呆然とするほかありませんでした。
3月28日は、学校に人がおらず、子どもたち、父母の気持ちに影響がなかったと思う方もおられるかも知れませんが、とんでもないことです。朝鮮学校があるからああいった連中がくるんや、と思われてしまえば、私たちが60年もの長い間築いてきた朝鮮学校と地域との信頼関係が崩れてしまうという恐怖感は、12月4日以来、私たちの心の中にずっとありました。そして、3月28日には、実際に、地域で大変大きな騒動となってしまったのです。私たちの恐れていたことが現実に起こってしまったのです。

9 一連の事件で損なわれてしまったもの

子供たちは、テレビなどから、普段、いろいろな情報にさらされています。日本のテレビでは、朝鮮に関する情報はほとんど悪いものしかありません。だから、普段から特に自覚をしていないと、朝鮮人であることは、隠さなければならない、恥ずかしいことや、と思いこんでしまいかねません。この上、日本の学校に行って、毎日通名で過ごさなければいけないとなると、それは習慣になってしまいます。毎日の生活で常に自分の出自、民族をかくさなあかん、恥ずかしいことやから、という意識を持つことに繋がっていくと思います。私ですら、煩わしいことを避けたいと思う時には通名を使うこともあるのです。
子ども達は、朝鮮学校に行っていなかったら、マスコミとか、日本社会の常識、非常識、偏見などに疑問も抱かず鵜呑みにしてしまう可能性があります。このような、偏見の中で生きるのはしんどいことです。そのしんどさの根本である「在日」とは何か、ということを教えてくれるところが朝鮮学校です。
子ども達が、自分の出自が朝鮮半島であることは別に恥ずかしいことでもなんでもないと自尊心を持つには、個々の家庭での価値観と、社会、学校が一致していないといけません。親から子への思いを学校がしっかりと受け止め、子ども達の存在を尊いものとして大切に育て、同じ民族の色んな世代の人から同胞社会の大切さを学び感じ取る、それが、私たち(ウリ)の学校(ハッキョ)、ウリハッキョです。子ども達は、日本で生まれ、育っており、多くの時間を日本で過ごします。日本の社会に出るまでに民族学校で自分の出自が朝鮮半島にあることを大事に思い、自信を持ってこそお互いを尊重し受け入れるバランスを持ち、日本社会の構成員としての役割を果たせるのです。ですから、ウリハッキョの民族教育は、彼ら在特会のいう反日教育であるはずもないし、これからの未来の日本と本国とをつなぐ夢を生み出す場所だと思います。
私は、子どもを叱る時に、たまに「学校にいかさへんで」ということがあるのですが、そうすると子どもは泣いてしまいます。子ども達にとっても学校はとても大事な場所なのです。子ども達は、オモニやアボジがこつこつ貯めたお金でスクールバスを買っていること、オモニ会が給食の世話をしていることなど、この学校を維持するために、在日同胞が多くの努力をしていることを知っています。
朝鮮学校は、子ども達のかけがえのない学び舎であり、また何世代もの同胞が集う大切なコミュニテイであります。だから民族学校は1世、2世の思いが脈々と3、4世にまでつながり、その思いが詰まった、心のよりどころでもあります。親になった今でもなお、朝鮮学校は、日々のしんどさの中、手をつないでがんばっていける仲間のみんなに会えるところでもあります。

私は、仕事柄、在日のハラボジ、ハルモニ(おじいさん、おばあさん)と触れ合う機会が多くあります。在日1世の中には、ハングルで自分の名前も書けない方がいます。その方達は、解放後、国語講習所に集まり、字を読める人を囲んで祖国の事を書いた文章を読んでもらって、生まれ故郷に思いをはせたのです。そのような1世の方には、自分は字も読めなくて恥ずかしいけれど、子ども達にはハングルで読み書きができるようになってほしいという強い思いがあると話されます。自分自身が貧しくて満足に食べられない中、1世たちは、お米や、果物を朝鮮学校に持って行って朝鮮学校を支えていたのです。早く亡くなった私のハルモニもそうでした。子ども達に朝鮮学校があることは、在日1世の支えにもなっていたのです。朝鮮学校は私たち朝鮮民族の財産です。そのために血を流し、思いを託して守ってきたのです。
私たちのかけがえのない第一初級学校を襲撃し、子ども達を震え上がらせ、根も葉もないデマを広め、嘲笑した在特会を、私は許すことができません。

ネット上では目を疑う言葉が行き交いました。長年かかって築いてきた近隣との関係も、あの日以来、ぎくしゃくしがちなものになってしまいました。学校に対する悪意と偏見に満ちた電話も多くかかるようになってしまいました。児童が公園を使うこと自体は全く問題がないはずなのに、事実上とても使いにくいという妙な雰囲気になってしまいました。少し生徒がグラウンドに出るだけで電話がかかってくることがあり、学校はそのたびに説明や対応をせねばならなくなったそうです。そして、第一初級学校はその長い歴史を閉じ、第三初級学校と統合しました。私たちはできるだけ在特会のせいだと思わないようにしていますが、あの事件がなかったらこうはなっていなかったと思うと、大変残念なことです。
阪神高速の工事が終われば、公園は元通り、子どもたちが思い切り走り回れるようにしてくれる、というのが、事件前の市の私たちに対する約束でした。ところが、あの事件の後、市は、私たちとの約束を反古にして、公園全体に遊具を置いたり通路を造ったり向月台のような山を作ったりして、学校の授業や行事に使いにくいものにしてしまいました。公園の完成予想図の青写真を見せられたときの衝撃は、今でも忘れられません。

10 裁判について

裁判を起こすこと自体がよかったのか悪かったのか、今でも結論は出ていません。起こったことに蓋をしてしまいたい気持ちも正直あります。裁判を通じて、私は、この負の連鎖を断ち切りたいと強く思うようになりました。あんなことが繰り返されるのは私たちで終わりにしなければならないと強く思いました。いじめや差別は社会悪です。あんな事が許されてはいけません。自らのやったことの罪の深さを思い知らせるべきだと裁判を通じて思いましたし、このようなことのできる場は司法の場しかないとも思うのです。
今まで失った多くのことを取り戻したいというのが私たちの願いでしたが、第一初級学校のなくなった今、それは不可能となりました。しかし、私たちは、より前向きになれました。それは、日本にある朝鮮学校は、多くの日本人の両親によって守られてきたのだと知り、学び、得がたい友人をたくさん得られたからです。私たちだけが怒り、許せないと思っているんではない。この間日本の人たちが私たちとともに怒り、励ましてくれたことは、裁判中、どんなに私たちを勇気づけてくれたかわかりません。

当時5年生だった私の娘は、第一初級を卒業して今は、中級学校に通っています。私は、娘が第一初級学校を卒業するのと同時に、オモニ会の任期も終えました。学校を出てしまった今、本当にあの事件があったのか、悪夢ではなかったのかと思います。できれば、忘れたい、引き戻されたくない気持ちもあります。実際、法廷で事件のDVDを見た時には、12月4日当時の焦燥感や怒りの気持ちに引き戻されてしまいました。
また、先に述べた子どもにGPSを持たせたオモニは、事件から1年たったころ、電波の具合が悪かったのか、GPSからの通知が届かなかったことがあって、在特会のことが頭に浮かび、何かあったのではないかと不安になり、仕事も手につかないまま学校に電話を何回もかけたこともあったそうです。何回目かでようやく電話が通じて、子どもの安全を確認できたそうですが、その間の何十分間かは生きた心地がしなかったということでした。
毎日のようにここまで心配しなくてはいけない現実があります。事件から月日がかなりたった現在でもなおこのような状況があることは、子ども達のことを常に考えている私たち保護者には耐え難いことです。金尚均さんへの尋問で、在特会代理人から、「仮処分があって、在特会も来なくなって、緊張状態は和らいだんではないですか。」という質問がありました。冗談ではありません。

私は本当に思います。自分が生まれ育ったこの地が大好きですし、日本人がこの日本に住みよくなることが、私たち在日にとっても住みよい、共存、共栄の社会になるのではないかと。この地は、日本の社会に生きる私たちにとって大切な家族、日本の友人と共に暮らす大切な場所なのです。そして何よりこの地で平穏と和睦、生きる権利を繋ぎ、後生にバトンをつなぎたいのです。
学ぶ権利とか、生きる権利とか、口で言うのは楽な言葉でした。けれどもそれが本当に脅かされたときに、初めてどんなに大切なことだったのか気がつきました。日本人の子供たちに学ぶ権利があるように、朝鮮の子供たちにも学ぶ権利がある、これは朝鮮の子どもも日本の子どもも同じで、等しく保障されなければならないものです。これはみんな持っている権利だ、だから、侵害することは許せない、私たちには享受する権利があること言いたいし、認めてほしいです。法の力で子ども達の権利を守ることができるということを、是非示していただきたいと思います。
私自身も、辛いことはたくさんありますが、この裁判を最後まで見届けたいと思っています。



以上。