第17回口頭弁論傍聴記 オモニ会会長陳述書1

今回の口頭弁論は原告側証人として、朝鮮学校襲撃事件当時のオモニ会(母親)会長であるFさんと、社会学歴史学の専門家である同志社大学板垣さんの証言がえられた。
その裁判証言内容としてFさんの陳述書と板垣さんの意見書が出されておりそれを入手する事ができた。そこには法廷で訴えるべき内容がそこに書かれており、掲載の承諾がえられたので、今回は形式を変え、プライバシーに関する部分のみ改変しそれを全文掲載する事とした。

まず、オモニ会Fさんの陳述書では法廷での証言と同じく、当時の生々しい事実関係と痛々しいまでの訴えが述べられており、これをまず2回わけて掲載する。
板垣さんの意見書は、朝鮮学校の成り立ちから、授業内容、組織について述べられており、その上で、在特会に留まらず日本の排外的構造の中で民族教育がいかに守られ育てられてきたかを論証しており、これも2-3回にわけて掲載予定。
また、その後、公平を期す意味で、被告側の反対尋問を掲載する予定となっている。ここでは在特会副会長八木氏の大活躍に期待してほしい。


なお、裁判は今回で証人尋問が終了し、次回期日は2013年6月13日(木曜)であり最終弁論が予定されている。





では以下より、当時オモニ会会長Fさんの陳述書を掲載する。








Fさん陳述書
                                


1 私のこと

事件の起こった2009年12月当時、私の娘は京都朝鮮第一初級学校(以下「第一初級学校」といいます。)の5年生でした。息子は、京都朝鮮中高級学校の高等部1年生でした。
また、私は、当時、第一初級学校のオモニ会の会長として、学校のお世話をしていました。
私は、京都市にある、在日の高齢者の介護施設の職員として働いています。

2 オモニ会の活動

「オモニ」は、朝鮮語で、母親を意味します。オモニ会は、初級学校の母親の会で、とても活発に活動をしています。
オモニ会は、日本の学校に比べて給食もなく設備も不十分で財政も苦しい朝鮮学校に通う子どもたちがよりよい環境で学べるように、自主的に朝鮮学校を支援する活動を行っています。例えば、月に1回子供たちに給食を作ったり、キムチやのりや冷麺を売ってその一部を朝鮮学校の財政にあてたり、バザーの売上げを寄付して学校に必要な備品を買うなどです。
また、朝鮮学校を地域の方によく知ってもらおうために餅つき大会やバザーを開催し、たくさんの地域の方が朝鮮学校を訪れる機会を持って頂くようにしていました。
さらに、朝鮮学校の子ども達が予防接種を無料で受けられるようになど行政との交渉もしました。私たちが母親として気がつくこと、たとえば衛生面でインフルエンザ予防のため消毒の準備をするように学校に提案したり、消毒薬を学校に準備したりもしました。
子ども達が健康で十分な教育をできるようにするためにできることは何でもしたいと思ってオモニ会の活動をしてきました。
また、オモニ達には、日本の学校に行っていた方も多く、朝鮮の文化を知りたいという希望も多くあります。そこで、オモニ会では、オモニ達が民族の文化にふれ教養を高めるために、講演会を開いたり、朝鮮の文化の勉強会を開いたり、みんなでキムチを漬けるなど、在日として自分のアイデンティティを確認する作業もしてきています。オモニ会は、学校を支えるだけでなく、在日同胞の母親達のコミュニティとして機能しているのです。
朝鮮学校には、父親達の会であるアボジ会もあります。これはオモニ会のだいぶ後にできましたが、オモニ会と同じく、朝鮮学校の支援をする趣旨の団体です。

私がオモニ会会長になった時に、学校の近くに阪神道路公団が高速道路を作る計画が進み、着工を控えていた時期でした。学校や父母から、現在ある学校のバスの駐車場がなくなるのでそれを確保してほしいとか、工事の騒音や粉塵がどうなるのか等聞きたいなどの要望があったので、オモニ会は行政に陳情や折衝に通っていました。阪神道路公団とは、1週間に1回の話し合いの機会を持つことができるようになりました。

3 朝鮮学校に通う意味について

私は、両親とも在日であり、私自身は在日3世です。私の祖父母は朝鮮から出稼ぎで日本に来ました。1920年代頃、私の祖父が日本に出稼ぎに来て日本である程度の収入を得ることができるようになったので、その後に、祖母や、叔母を日本に呼び寄せたのです。私の両親は2人とも日本の学校を出ていましたが、私には民族教育を受けさせたいと考えたため、私は朝鮮学校に通いました。
私自身は、物心がついていたころから朝鮮の文化の中で育っていました。子どもの頃、よく近所の子どもに「朝鮮」、「朝鮮」と言われていじめられました。そのときには、「朝鮮」は「ちび」とか「でぶ」、「あほ」とか言われるのと同じような、悪い言葉だと感じていました。私の家は朝鮮人の家で、他の家と違うということは分かっていました。「朝鮮人」は本当のことだったのですが私には逃れようもないことでしたので、近所の子ども達にそう言われると身の縮まるような思いがありました。「お願いやから、それだけは言わんといて」と思いました。「朝鮮」という言葉はその頃の私にとってはとても恥ずかしいものだったのです。
けれども、朝鮮学校で学ぶうちに、「朝鮮」が恥ずかしい言葉ではないと思うことができるようになりました。朝鮮学校で気持ちを強くして貰ったのだと思います。先生が、学校の黒板に「朝鮮とは朝の鮮やかなきれいな国という意味なのです。」と書かれ、優しくしっかりと諭すように言われた言葉をとても鮮明に覚えています。見たこともない自分の祖国に思いを馳せ故郷の歌を歌ったり民族衣装を学校で着てみては胸を躍らせたものです。学校で学んだ細かなことは忘れても朝鮮という言葉の意味は、生きていく上での心の支えになり、決して忘れることはないものとなりました。近所の子供達とは、行く学校も違うし、制服も違うけれど、朝鮮学校に行くことで、それが恥ずかしいことではないと思うようになりました。
日本で生きていく上で、北朝鮮が敵対視されていると感じられるという気持ちや、わずらわしいことに巻き込まれたくないという気持ちも一方であります。日々の生活の中で実名を明かしたり、在日であることが分かってしまうような場面では、今でも葛藤を感じることがあります。けれども、朝鮮という言葉は恥ずかしい言葉ではないということから、自分の国を知り、想うという当たり前の発送をしっかりと育み、強くすることでこの日本で生きていても何ら恥じることなく、むしろ心を豊かに強く生きていけるという自信が得られました。これらの大切なことは、朝鮮学校でしか学べないと思っています。
今回、第一初級学校に在特会が来て騒ぎを起こし、私は、就学前に「朝鮮」、「朝鮮」と言われていじめられた幼い頃のことを思い出しました。そして、私自身も傷つきました。
けれども、私は、在日3世です。どのように傷ついても、日本人として生きていくことはできません。

4 2009年12月4日直前の地域との関係(とくにバザーについて)

2009年10月頃、オモニ会では、11月1日に開催予定のバザーの準備に追われていました。
 そのころ、私は、京都市緑地管理課から、第一初級学校に対し、「近所からクレームが来ている。勧進橋公園での焼き肉をしては困る、マナーが悪い、駐車違反などがある。」などの注意があったということを知りました。
私はこの話を聞いたとき、大変恥ずかしいことだと思いました。確かにこれまでマナーが良いとは決していえなかったことにつき、思い当たる節があったからです。
私は、これまで、お餅つき等の行事の時にはお餅を近所に配ったり、バザーのお知らせをポスティングさせてもらったり、それなりに地域との良好な関係が築けていたと思っていたので、地域から学校にクレームがつくとは予想していませんでした。私は深く反省しました。そして、オモニ会で、私たちの努力が足りなかったのだと話し合い、「地域で認知される学校にならなあかん!」と思って、改善案をいろいろ話し合いました。バザーの日にちも迫っていましたので、大急ぎで対応をしました。
10月29日、緑地管理課の方が第一初級学校を訪れ、私たちは事情の説明を受けました。学校の教職員のほか、オモニ会の役員も同席しました。緑地管理課から、近所からのクレームの内容が知らされました。バザーのときの駐車違反車両が多いこと、タバコを捨てたりするなどの公園でのマナーの悪さ、公園で焼肉をすることは火気を使うので心配だなどというものが主でした。また、キムチ屋さんの店先に貼ってあった私たちの作ったカラーのチラシに、勧進橋公園が「運動場」と記載されていたという点にもクレームがあったということでした。これは制作工程でのミスでありましたが、私たちのチェック漏れも原因の一つであり、身の縮む思いでした。
私たちは、これまで時間をかけて準備してきたバザーを何としても実施したいという思いと、近隣の方々の思いを受け止め公園の利用の問題を解決したいと訴えました。市の職員の方は、バザーを中止しろとはおっしゃいませんでしたが、近隣の方々との問題には十分対応して当事者で解決してくださいと仰いました。私たちは、至急の対応が必要だと思いましたので、30日、31日と、オモニ会で緊急会議を開きました。
私たちは、誠意を込めて地元の方々の理解を得ようと必死で考えました。そして、自分たちの行いを改めようと、10月30日、オモニ会の名で、いままでのお詫びと、バザーのお知らせのため、「過去50年間この地で民族教育を行ってこられたのも京都市及び地域住民の方々のご理解とご協力の賜です。」という内容のチラシを作って配布しました。
クレームがあったというマンションの管理人さんとも直接お目に掛かってお話ししたかったのですが、突然申入れをすることもためらわれましたので、間に、市議会議員の先生に入っていただきました。そして、10月31日のオモニ会のあと、学校長とオモニ会の2人(私と、バザー実行委員長)の合計3人と、マンションの管理人さん(この方は、自治会の副会長も兼任されています)との面談が実現しました。
マンションの管理人さんは、「ここのマンションは、鴨川沿いで景観がよい、環境がよい、というのが売りです。新しく入居してこられる方は、新しく造成された新興住宅地のような感覚で入ってくる方たちが多いのです。在日の方が多い地域であるとか、歴史的経緯とか、何の予備知識もないのです。だから、この公園や学校の様子を見て、びっくりして反応してしまうのもやむを得ない面もあるんです。誤解、偏見から悪感情を持ってしまうところもあるのです。」とおっしゃっいました。そして、「地域の理解を得られるように努力を」とおっしゃって励ましてくださいました。
私たちの意識は、これまで、お餅配りにしても、バザーのポスティングにしても、何となく前から続いてきているからやっていたという面もありました。けれども、それは第一初級学校の先輩オモニたちが地域のなかで近隣の理解を得るように営々と努力し築いてきたものだったことがよく分かりました。私たちは、はたして、新しい住民の方達に理解を得るように努力をしてこれたのだろうかという反省もしました。そして、地域の方々の理解があって、はじめて第一初級学校が成り立つこと、子どもたちがのびのびと過ごせる学校環境が維持できるということを改めて感じ、その時々の地域の変化に応じて私たちも努力をしないといけないと、思いを新たにしました。
私たちは、管理人さんと面談したことで、やらなければならないことが見えた気がして、とても救われました。これまで以上に第一初級学校が地域に溶け込み、この地域の風景のように馴染んでいこう、地域の方々の輪にもっと溶け込んで行こうと、オモニ達の心も一つになりました。
そして、改めて、公園では火気を使わず焼肉は校地内ですること、駐車違反は絶対にさせないこと、公園でたばこは吸わないこと等、マナー違反に注意をすることを申し合わせをすることができました。そして、地域の皆さんの理解を得られるように努力しました。

そして、11月1日、バザーの当日は、駐車違反を防ぐため、要所に数人が常駐して車の整理を担当し、公園での禁煙や火気厳禁、アルコールを飲まないなどの課題を実現することができました。
バザーには、マンションの管理人さんも来てくださっていたようで、後にお礼にあがった時に、「こんなんやったら全然問題ないね。キムチを買ったよ。」、「子供らはなんも悪いことはない、あんたら父兄が、ルール通りに使ってくれたらええんです、子供らはほんとにいい子ばかりや、きちんと挨拶もする子ばかりや。」「掘り出しモン買ったって、近所の人も喜んでたよ。」と仰って下さいました。
地域の方々に学校や子ども達の様子を見ていただけたこと、そして偏見を乗り越えて地域のご理解を得られたことがとても嬉しく、準備にあたってきたオモニ会のメンバー達は管理人さんの前でわんわん泣きました。
このように努力して、少しずつ地域との関係が良い方向に動き始めた矢先に、12月の在特会事件があったのです。私たちオモニ会は、精一杯気持ちを込め、丁寧に繰り返しお互いのあり方を考え、思考と手間を積み重ねた結果、ようやく地域と新たなつながりができ、住民の方々にも理解が得られ、応援してあげようか、という機運が芽生え始めていたところだったのです。在特会の心ない罵声を直に聞き、ネットで見ることで、偏見や誤解や面倒なことを避けたいという気分は瞬く間に広まり、学校や子ども達のために頑張ってきた私たちや先輩たちの努力や苦労が、全て、水の泡になってしまったように感じます。

5 12月4日のこと

何日のことだったか忘れましたが、11月の終わり頃、私たちは、11月21日に「在特会」と名乗る集団が総連京都府本部前に押しかけたことと、第一初級学校に来る予告をしていることを知りました。その後、ネットの動画で、公園で高速道路工事の警備員さんがインタビューを受けているのを見ました。
私は予告を見て不安に思ったのですが、いくら在特会とはいえ、まさか子どものいる前であまり乱暴なこともしないだろう、と思っていました。学校で集まりがあり、どのくらいの警戒をしたら良いだろうかという議論になりましたが、せいぜい2〜3人が来て騒ぐかもしれないという程度だろうということで、在特会が来ても絶対に自分たちからは言い返さないでおこう、何かが起こっても学校には大勢で集まることはしないでおこうというという申し合わせができた程度でした。そして、万が一のことを考えて、南警察署を訪れ、警備の要請もしました。しかし、実際、あの忌まわしい12月4日の事件が起こってしまったのです。警官は何人か臨場しましたが、制止するでもなく、手をこまねいて見ているだけでした。

私は、当日、学校の近くに住んでいる友人から、「在特会が来て、学校が大変なことになってる。」という電話をもらいました。電話の向こうでは、ワンワンと何か聞き取れない叫び声のような音響が響いていました。私は、いくら在特会とはいえ、子ども達を対象に攻撃はしてこないだろうと信じていましたので、この状況に驚愕しました。
申し合わせでは父母は学校には行ってはいけないということになっていましたが、私はいてもたってもいられずに、車に乗って第一初級学校に向かいました。校地に入ることもできず、私は心配で心配でどうしようもなく、学校東側の堤防を行ったり来たりするほかありませんでした。遠くからでも、彼らが拡声器を使って何かを叫んでいる声が聞こえました。そのワンワンという威嚇するような声を聞いているうちに、怒り、焦り、悔しさで気分が悪くなり、胸苦しさで涙があふれてきました。私は、「子どもら、どうなっているんやろう」という気持が押さえられなくなり、結局、私は、車で学校の北門に行きました。先に来ていたアボジ(父親)の一人が、「こっちから入り」と中に入れてくれました。その時には、すでに在特会は引き上げた後でした。
この日はとても寒い日でした。在特会が帰った後に、学校に父兄や卒業生らが次々とやってきました。私は、子ども達を守ってやれなかったという悔しさと、何もできなかった自分を責め、ずっと泣きながらお茶を入れていました。学校に集まった人たちは、皆、呆然としていました。ショックを受けた状態でした。起こってしまった現実にどう対処したものかわかりませんでした。
この日、私は、5年生の娘と、5時頃に一緒に帰りました。在特会が来た時は、娘ら5年生は、みんなでゲームをして遊んでいた所でした。しかし、ゲームがなかなか終わらないことや、先生方がバタバタと教室を出たり入ったりしていたので、何かが起こったんだろうかと不思議に思っていたそうです。教室を出てみたら、2年生など下級生の子らがわんわん泣いていたので、娘ら上級生は下級生をずっと抱きしめて慰めてあげたそうです。

翌日のことだと思いますが、私は、一人で、ネットにアップロードされたこの日のできごとを見ていました。遠くから一部が見えただけで何を言っているのかも聞こえなかったので、私は、何があったのかを確かめたかったのです。荒々しい怒号と口にするのもおぞましい言葉を1時間も聞いていると、吐き気が襲い、動悸もしました。子どもたちが中にいることを想像すると、胸を掻きむしられて、「もう止めて!」と何度も画面に向かって言いました。
そして、画面を通じて、警察は来てくれたけれども、結局何もしてくれなかったのだということがわかり、無力感と怒りの混ざったなんともいえない気持になりました。そのとき、私が動画を見ていた部屋に娘が入ってきて、「オンマ(お母さん)なにこれ?」と聞いてきました。私は、きのうなんかあったやろ、こういうことがあったんやで、と説明しました。
動画を見た娘は、「なんで?」「なんでこんな風になったの?」「なんであの人ら怒ってるん?」「どこに帰れって言ってるん?」と私を質問攻めにしました。そして、「またくるの?」とも聞いてきました。私は、特に最後の質問にはどう答えたら良いのかわかりませんでした。
私は、ごまかそうとしたら子どもは絶対に見抜くから、親として、何と答えたら良いのかきちんと勉強しておく必要がある、事態ときっちり向き合って、しっかりと答えられるようにしなくてはいけない、と決意しました。
12月4日の夜、私は、オモニ達らからのたくさんの電話の対応に追われました。学校も、事情の説明や今後の対策のために集まる日程を決めたりしましたが、現場はとても混乱していました。まさに緊急事態でした。

12月4日を経て、子供たちの中に変化がありました。
あるオモニは、子どもから、「朝鮮人ってわるい言葉なん?」と聞かれたそうです。実は私の娘も同じ質問をしていました。他にも何人かから同じ話を聞きました。子ども達は、差別的な、悪意をこめた「朝鮮人」という用法があることを全く意識していないので、理解できずにぽかんとしてしまうのでした。オモニ達は、親として何と言って説明したらいいのかとても困っていたのです。「朝鮮」という言葉が差別的な意味合いで使う人がいることを教えるべきなのか、悩みました。本当は、そんなことは教えたくないのです。
在特会の事件があってから、娘がスーパーで「オンマ!」と呼びかけるのを聞いて、思わず「『オンマ!』と言わんといて、危ないから。」と思ってしまう自分がいます。自分の国の言葉をのびのび使う子どもに育ち、嬉しいはずなのに、私は、思わず娘の口を覆いたくなるまでに追い詰められていました。娘に、外ではお母さんと呼びなさい、ママと呼びなさいとも言えません。自分の心が負けたら子供の心もぶれると思い、いつも葛藤があります。
在特会事件の後、子どもに携帯GPSで安否確認できるようにしたオモニもいます。学校に着いたらオモニのほうにお知らせが必ずくる携帯の設定になっています。このオモニは、仕事の関係で子どもより早く家を出なければならないので、職場でこの通知を確認するのが日課になってしまいました。
また、制服の上に、ジャケットを羽織ることを許可してほしいといったオモニもいます。学校の制服は、「朝鮮第一初級」と書いてあるエンブレムが着いているので、通学途中に何かあるかも知れないと不安に思ったのです。しかし、私たちは、子ども達に、いつも、朝鮮人であることと朝鮮学校に通っていることは胸を張っていいことなんだ、誇らしいことなんだと教えています。それなのに、登下校の時にはエンブレムを隠しなさい、隠さないと危ないのだということになれば、子ども達はどのように受け取るだろうかと、オモニ達は真剣に悩んでいました。
ある時などは、学校の近くのコンビニで暴行事件があったということで、一斉メールが流れたこともありました。これは在特会とは関係なかったことが後から判明しました。しかし、子ども達に危害が及んでからでは遅いので、このような場合、何か不審な徴候があれば常に在特会と結びつけて対応を考える必要がありました。オモニ会会長という責任もあって、普段から常にぴりぴりと神経を張り詰め、何もないときでも不安で、気持ちが完全に休まるようなことはありませんでした。
在特会メンバーを実際に間近で見てしまった子のオモニから、「子どもが、もう外で遊ぶのはいややと言っている。」と聞きました。遊びたい盛りの子が、公園で遊ぶことを怖がったのです。学校の中でも、事件後に公園でビデオを撮られただとか、変な人に声をかけられただとか、子ども同士でいろいろ話をしているようでした。しかし、親に心配をかけまいとして、子ども達は全てを親に話すわけではありません。
先生方も12月4日以降は大変でした。本来の仕事以外のことで、言葉で言い尽くせないくらいたくさんの手間を割かなければならなくなりましたし、不安の持って行き場がない保護者達の不安を受け止めなければならない立場になりました。本当に大変だったと思います。

そもそも、第一初級学校と地域との間に発生した近時の問題は、話し合いを積み重ねれば解決できるはずの問題だったのです。けれども、在特会は、長い間かかって築いてきた私たちと地域との信頼関係を、むちゃくちゃにしてしまったのです。地域の方々に、朝鮮学校は、在特会のようなややこしい人たちを招くところ、と思われかねません。ここまで、多くの先人達の努力により、地道に、地域との関係を作りあげてきたのですが、それが一瞬でガラガラと音を立てて崩れていってしまったように感じました。


(続く)