第17回口頭弁論傍聴記 証人板垣氏 1


まず、第17回口頭弁論傍聴記冒頭において、社会学歴史学の専門家である同志社大学教員である板垣さんの「意見書」を掲載するとしたが、これは加筆・修正して何らかの形で公表となる模様である。よって当ブログは、傍聴記に徹して裁判模様を記す事とした。
この間、間延びした事と予定変更する事をお詫びしたい。
今回は、板垣氏の証人尋問を2回に渡り掲載した後「まとめ」を掲載する予定である。






原告側尋問

朝鮮学校について


◆(証拠物 板垣氏提出「意見書」を示す)まず、朝鮮学校の存在と運営について, 運動という面が非常に大きいというふうに書かれているが、それはどういう意味か。
幾つかの意見合いをそこに込めているが、民族教育というのを進めていく際に、それは制度的に保障されているものではない。時には弾圧もあり得るような状況で、それを維持しようとしたときには、行政に働き掛けたり, 人々を動員したり、いろんな運動というプロセスを経てこないと、ここまでやってこられなかったというような意味合いが一つある。もう一つは、学校運営が大変な中で、いろんな人たちが走り回って学校運営をしている。 ボランティアをしたり、あるいは場合によっては寄附をしたりしながらいろんな人たちが動いてきたというような意味合いを込めて、連動という言葉を使っている。

◆(証拠物を示す)これは、先生のゼミで作られた研究報告書か。
そうだ。社会調査実習の報告書だ。

◆学校に関わるアンペイドワーク等を非常に支えにしているという話があるが、 それは運動という面と関わっているということか。
そうだ。 アンペイドワークというのは、対価が支払われていない活動というような意味合いなので、ボランティアを含め、学校の教職員は給料をもらっていても給料以上にいろいろ働く姿も含め、保護者たちの動き、同胞の動き、そういうのを含めて、アンペイドワークという概念だ。 それは、かなりこの運動という事と重なっていると思う。

◆「朝鮮学校社会学的研究 目次」に、「学校で働く人たち」というのが書かれているが、これは先生方の調査か。
そうだ。

◆それから、「オモニと学校」ということで、非常にたくさんページが割かれているが、これは、オモニ会、オモニが、学校を支えるアンペイドワーク運動をしてきたということが聞き取られているという事か。
そうだ。 お子さんたちも頑張っているが、やはりオモニたちの動きが非常に大きいということだ。

◆オモニの話は先ほど聞いたが、財政面では、バザーをしたり、そういうことをされていたということか。
そうだ。 バザーをしたり、或いはキムチの注文販売をしたり、いろんなことを財政面で支えている。

◆維持が運動に依拠してきたという話をしたが、それは例えばどういうものがあるのか。
経営とかではなくて、例えば通学定期券とかそういったものは自動的に朝鮮学校に同じように適用されてきたものではなくて、陳情したり、いろんな動きの中で達成されてきたものだ。 それから大学入学資格なんかも、ちょっと今はいびつな形にはなっているが認められているのも、働き掛けの産物だし、そういう形で学技として存立させるために様々な運動があったという事だ。

◆意見書には、教育内容自体の歴史性が随分書かれており、その時々の在日の状況に合わせて教育内容が変化しているというふうに書かれている。そのことについて聞くが、まず、現在ある朝鮮学校の前身というものは、どういう形であったのか。
意見書においては2種類のことを書いているが、 一つは戦前のものだ。 戦前の夜学とか、書堂とか、そういうものだ。もう一つは、戦後間もなくできた国話講習所というふうに総称されるそういう教育施設だ。

◆そういう組織、学校の前身となるようなものは、誰が作ったというふうに認識しているのか。
戦前の夜学は、統一 した組織が何とかということではなく、例えば京都では、西陣西陣、桂は桂みたいな感じで、労働団体とか社会団体とか、そういったところが作って、間もなく潰されるが、戦後間もなくは、統一的な組織がないまま始まって、その後は、いわゆる在日本朝鮮人連盟が束ねていく形になる。

◆最初、多くは自主的な学校だったということでいいか。
そうだ。

◆統一した教科書とかも、もちろん, なかったわけだ。
当時は、本当に、いろんな多種多様なものを作っていた。

◆そういうふうに随分たくさんできたというふうに聞いているが、例えば京都の中では何校ぐらいできていたか。
ある調査では28という数字もあり、もう一つ別の数字だと38、9ぐらいの数字もあって、かなりあちこちにあった。

◆そういうふうにたくさん国語講習所ができた原因というのは何なのか。
その45年直前の時期というのは、いわゆる皇民化の教育の時代であり、朝鮮が日本から解放されて、もうそんなのを受ける必要はなくなったということで、日本小学校から、どばっと、みんな辞めた。 それで、辞めたといっても教育を受けない訳にもいかないし、それから、多くのかなりの人数が朝鮮半島に帰っていったと。その中で、朝鮮語も喋れないと或いは使えないと、しょうがないと、言葉を学んでいくということなのだ。 だから、それまでできなかった教育を取り戻すというような意見合いが非常にそこに詰められていたと思う。

◆それまでできなかった教育というのは、皇民化教育の結果という事か。他に、帰国の意思もあったということか。この当時、帰国をされようとしている方は、どの程度おられたという調査報告はあるのか。
象徴的な調査だが、1946年3月に、連合軍が計画輸送をするために在日朝鮮人が登録をした。それで64万人が登録をして, そのうち51万だったと思うが、 約8割が帰国を希望するという数字が残っている。

◆今回問題になっている、第一初級学校の前身も、やはり戦後直後にできたという事か。
記録によれば46年だ。

◆どういう形で始まったのか。
第一初級の前身に当たる学校は、今は統合したが、陶化小学校の部屋を借りた形でスタートした。

◆この頃の教育の内容というのはどういうものだったか、先生が調査された範囲で教えてほしい。
朝鮮語を中心にした、いわゆる普通教育だ。 国語、算数、理科、社会というような、そういう普通教育だ。

◆先ほどの64万人中51万人が帰国の登録をしたのは社会的状況の反映だというふうに考えているのか。
帰っても困らないようにというのはもちろん入っていたと思う。

◆登録された方は, 一体どの程度帰国したのか。
たしか8万ぐらいだったと思う。 その連合軍の登録の中からという事だが。

◆51万中8万ということで、随分少ない数字だと思うのだが、どうして帰らなかったかという事に何か調査なり見解なりあるか。
事情はいろいろだが、当時、連合軍は、出身が南の人は南に帰る、北の人は北に帰るという方針だった。 そういう中で南に帰ろうとしても,ソウルを中心に人が大量に引き上げてきている状況で、定着する場所とか仕事というのも非常に難しくなっていた。一方で、じゃあ、日本で集めた財産を持って何とか祖国でやろうというときにも、持ち帰り制限があり、財産とか、手回り品も含めてあり、そういう中でどうやって暮らすのかと。それから、南北分断状況の中で、政情もはっきりしないという中で、もうちょっと落ち着いてからというところで、躊躇したという人が多かったのではと思う。

朝鮮戦争は50年から53年の停戦までということか。
 そうだ。

◆そういう政治状況の中ということか。
 そうだ。

◆1955年には総連が設立される。
 そうだ。

◆総連というのは、どういう団体か。
在日本朝鮮人総連合会だ。1955年にできて、さっき言った朝連は45年からで、49年に一回強制的に解散させられ、一回断絶があって、その後、51年に民戦と言われる組織が出来上がるが、 在日朝鮮統一民主戦線、この団体が一応直接の前身に当たる。それで、この民戦からの脱皮という形で総連ができて, そのときの一つの大きな柱というのは、日本の民主化とか日本の体制がどうかというところに参画するのではなくて、祖国の統一とか建設というところに総結集するという、朝鮮民主主義人民共和国に総結集するという言い方を当時しているが、そっちに路線転換をする。だから、内政不干渉という言い方をする中で、
日本の政治、日本人のための政治というのは、やはり日本人が考えることだというような、そういう原則の中でスタートしたものだ。

◆その中で、在日朝鮮人はどういうふうに位置付けられていたのか。
在外公民と言っていた。

◆内政不干渉ということだが、権利獲得運動という面ではどうか。
もちろん、日本に住む朝鮮人の権利の問題に関しては, いろいろと権利擁護運動というのをずっとやってきている。

◆この頃の在日朝鮮人巡る帰国の状況というのはどういうふうになっていたのか。
全体的には停滞をしているということになるわけだが、58年から帰国運動というのが始まるというのがある。

◆1958年に帰国運動が始まって、それは民衆の中から始まったというふうに考えていいのか。
北朝鮮の方から呼び掛けがあり、迎え入れるよというのがあって、そこから帰国運動いうのが展開されたということだ。

◆帰国運動が盛り上がったということについてどういう要因があったか。
当時の在日朝鮮人の状況というのを考えたとき、貧困と差別という中で暮らしており、今よりも本当に厳しい状況の中で募らしていて、将来展望というのがなかなか思い描けないという中で、朝鮮戦争が終わって復興を行う社会主義という体制を行っている国というのがかなりまぶしく見えたという事はあると思う。その中で、そっちの祖国の建設に未来を託したというようなそんな思いがあったのではと思う。

◆この頃は、社会主義国としての朝鮮民主主義人民共和国は、非常に経済成長もあったということか。
数値上は、どんどん上がっている時期だ。

◆このときの帰国というのは、どちらに帰る帰国か。
今申し上げている北の方のことだ。

◆在日の出身者は、朝鮮半島で言うと北と南どちらが多いのか。
ほとんど南部と言っていい。9割5分、9割7分以上ぐらいだったと思う。

◆北に帰るということについて抵抗はなかったのか。
なかったと言うと、嘘だと思うが、当時のビジョンとしては、それで行って終わりという話ではなかったと思う。つまり、南北統一がそのうちあるだろう、それから日朝国交正常化があるだろう、祖国との自由往来が達成されるだろうということで、一方通行のつもりは多分なかったと思う。それは、いずれも達成されないことに結果的にはなったが。 だから、北に行くことが南に行かないことになるという発想ではなかったのではないかなという気もする。

◆この当時は、南の政治状況はどういう状況だったのか。
その当時は李承晩政権の時期だ。それで、反共というのを一応国是としており、そちらに帰るというときに、かなり在日朝鮮人は無産者が多い状況で、思想的には、やはり社会主義の方が資本主義の自由競争というよりは、そちらの平等の方にかなり思い入れがある状況で、差が多いと。それで、その中で大韓民国へ行けるのかという問題があったと思うし、そもそも、そちらの方からはどうぞという呼び掛けがあったわけではないという事がある。

◆59年から帰国事業が始まるわけだ。
 そうだ。

◆そして、60代年を通して帰国事業がなされたということでいいか。
はい。

◆その間の朝鮮学校の教育内容というのは、どういうものだったのか。
総連になって、どんどん教育内容を変えていくというか、まず、教科書を統一したり、いろいろやっていく。朝鮮学校の教育のベクトルという言い方をたまにするが、 帰国をする、あえて何とかなるようにというベクトルと、日本で今後も暮らしていくというベクトルがあるわけで、それで、このどっちかに収れんされた時代というのは多分ないと思う。 しかし、この教育事業というのを一つのきっかけとしつつ、かなり、帰還しても何とかなるようにというところは強まったと思う。

◆60年代の教育というのは、朝鮮語による普通教育ということか。
そうだ。 基本的には普通教育だ。

◆少し背景的事情が変わるのは何年ぐらいか。
・・・何度も変わりますので。

◆60年代は. 普通教育で大体収まっていたのか。
ずっとそうなのだが。

◆特色ある教育になるということで言うと。
常に特色あるが、一番本国の状況に近くなっていくのは、60年代、70年代というふうに認識している。

◆67年にチュチェ思想というのが掲げられたということを意見書にも書かれているが、このチュチェ思想というのは一体どういうものか。
一言ではなかなか言いづらいが、人問中心の哲学という言い方をするが、よくそこへ行き着くのは自主とか自立とかいうようなことだ。 或いは事大主義批判というような事だが、脈絡としては、中国とか、ソ連とか、大きな社会主義国が隣にある。 それの影響下でいろいろやっていたところからの脱皮という側面が非常に強い。 それで現象的に見ると、マルクスいわく、レ一ニンいわくというような文章の書き方が、金日成いわくに変わっていくというような流れがある。

◆67年にチュチェ思想が体系化されたというふうに言っているが、その結果、それが73年の改訂に結び付くというふうに考えていいか。
その辺は、実は文献によっているが、余り確認はできてない部分で、一応、何人かの当時の関係者が書いたようなものを見ると、やはりその67年に、チュチェ思想というのは唯一思想という形で掲げられて、もちろん、それ以前からそういう流れはあるが、唯一思想という形で掲げられて、その中で、いろいろ組織内でも引き締めみたいなのがある中で、教育にもそれが反映されていくのが70年代というふうに認識している。

◆73年の改訂では、割と北朝鮮の教育内容に合わせた教育がされているというふうに認識しているのか。
そうだ。 徐々に名称が、例えば金日成主義というような言い方も使われるようになって、 そういうのが非常に色濃くなるのがその時代だと思う。

◆83年に改訂が行われているが、その83年の改訂作業は、いつ頃から始まったのか。
それも、ちゃんと調べられきれてはないが、70年代後半という記録がある。

◆そうすると、チュチェ思想が中心的に教えられたのは70年代前半から83年の改訂までということか。
最も強かった時期ではないかと思う。

◆その83年の改訂というのは, 在日の状況の変化があったというふうに認識しているのか。
意見書にも、教育内容と在日朝鮮人の状況との間の乖離という表現をしていたと思うが全般としては、帰国事業が停滞をしていくと、それで、主導がだんだん一世から二世へと移っていくと、それから70年代に、いわゆる在日論と言うが、本国とも日本とも違う独自の存在、我々在日という在日論というのも結構いろいろなとこで言われるようになっていくとか、そういう背景の中で、かなり祖国色の強い金日成主義の強いものと、日本の中で今後も暮らしていくのではないかという状況との間の乖離というところを埋めようという話が出てきたというふうに認識している。

◆83年の改訂は、具体的にはどういう内容だったか教えてほしい。
はっきりとは分かりにくいところがあるが、まず、それ以前のカリキュラムの中で、例えば、国語もそうだし、歴史もそうだし、英語もそうだし、そこにそれぞれ金日成の革命の歴史みたいなのが入ってきたりすると。 それで、どこを見ても同じようなストーリーが小中高の段階で入ってくるというところから、歴史の問題というのは一本化していくと。それから、言葉に関しても、朝鮮語の日常言語とかをちゃんと取り上げるようにしたとかというふうに聞いている。

◆日常言語として取り上げるということは、もともと母語が日本語だからということか。
そうだ。 本国で生まれ育った人は最初から朝鮮語を喋っているわけだが、日本話を生活言語として育ってきた人が第二言語として母国語を学ぶということを考えたという事だ。

◆更に93年にも内容の改訂が行われているというふうに書かれているが、改訂の内容について教えてほしい。
これは、かなり全面的な改訂で、教科書を全部入れ替えたというふうに聞いている。80年代終わりから準備が進められたというふうに聞いているが、方向性としては、例えば、金日成の幼い頃みたいな科目がなくなるとかいうような事がある。それから、日本の歴史とか地理とかいうのが小学校段階でも教科書として入ってくるという事にも見られるように、日本とか世界の情勢に関連しての授業数が筯えていくというようなことがある。 等だ。

◆その改訂作業を行った組織というのはどういう組織か。
それは、はっきり調べきれてないが、基本的には総連が、1986年だったか、在日の状況に合わせて教科書を改訂しようという決定をした中で進められたという事だ。 どういう人が参加していたかというのは、その段階のことはよく分からない。

◆次の2003年の改訂のときには、もう先生ははっきり判ったのか。
それは、当事者からも聞いたこともあるし、朝鮮学校の教員もそうだし、それから、朝鮮大学校で歴史研究をやっているような人とか、そういう研究者、そういった人たちが入ってやっていったという事だ。

◆教育編集委員会みたいな。
教科書編集委員会だ。

◆作られたという事か。
 そうだ。

◆2003年の改訂の理念というものは、どういうものか。
何か一言で言うフレーズがあったかどうかは記憶にないが、民族科目の強化ということと同時に、情報教育の充実とか、それから,日本と世界に関連する授業の充実というようなことが掲げられていたと思う。

◆他には。
それから、もう一つ。大事なことを忘れていたが、2000年に南北首脳会談があって、その精神、要するに統一に向かう精神、南北融和の精神みたいなのはかなり反映されている。

◆在日の教育が、どのような形で影響を受けてきたのかという事を、まとめ的に少し話してほしい。
先ほど言ったような感じで、60年代、70年代は、最も祖国のベクトルが強かった時代だと思うが、それ以前と、それから現在に至るまでは、かなりいわゆる在日というのが非常に強くなった方向で変化を遂げてきたと。それでも、基本的には、本国の授業内容がコピーアンドペーストだったことは一度もないと思う。その時々の在日の状況というのが100パーセント反映されることはないが、それを見ながら改訂を進められてきたという事があると思う。

◆帰還が前提となるかどうかというのがかなり大きいファクターだというふうに考えているが、それは、それで正しいか。
前提というか、将来像だ。日本と南北朝鮮という3者関係がどうなっていくのかと。その中で、どこで暮らして、どこで活躍していくかという将来像が反映されていくところだと思う。

◆教育内容の決定の主体的なものを、被告は、北朝鮮があり、そして、総連があり、そして、朝鮮学技があるという一本系統のような主張をしているが、それについては、どういうふうに考えているのか。
北朝鮮本国で在日の状況を全て把握できているわけではないので、そういうトップダウン形式での教育というのは無理だと思う。むしろ、在日の側の要請、要求を反映する形で作られていったと考えられるのがいいと思う。

◆在日の側が主体性を持ってということか。
まあ、そうだ。

◆(証拠物、朝鮮学校初級4年の教科書を示す)現在の教育内容について、2003年の改訂の内容について聞く。この4年生の教科書目次のこの2は主に、日本の地域、地形、地図という地理のことか。
そうだ。私たちの住んでいる日本だ。

◆「私たちの民族と文化」と書かれているが、少し説明願えるか。
この段階のものは、朝鮮文化入門みたいな感じで、金属活字がどうしたとか、天文技術がどうしたとか、キムチのこととか、踊りのこととか、そういう日本の人でもよく最初に出会うような内容が入っていたと思う。

◆(証拠物、初級5年教科書を示す)この5年生の社会は、「わたしたちの朝鮮」 というふうに2ページから41ページまであるが、ここは、どういうふうな特徴がるか。
現代社会の祖国版という感じだ。この場合は、北、朝鮮民主主義人民共和国が基本的には祖国の中心に置かれて、と同時に、南朝鮮という言い方になっているが、南半分のことも扱うという内容になっている。それで、最終的には、南北首脳会談、共同宣言みたいなところに行き着くような、そんな内容になっていたと思う。

◆31ページを示す。「北南共同宣言」というふうに書いてあるが、これが一つの重要なことか。
そうだ。この教科書の基本精神と言うか、教育過程が基本精神みたいな感じで挙げられていると思う。

◆あとは、もう全部、日本の歴史になっている。
そうだ。

◆(証拠物、別の教科書を示す)これは、物価とか、権力とか、もう全部、日本の制度ということか。
そうだ。 公民、現代社会的な内容だ。

◆最後の方に、在日同胞とは何かというふうに書かれているが、これも、同胞がどういうふうな生活をしているかとか或いは、民族教育はどういうものかとか、生活とか権利の問題が書かれているということか。
そうだ。3年生の段階から在日のことは扱われていて、自分のお父さん、お母さんのこととかを調べてみようというとこるから始まり、6年の段階になると、そういう形で客観的な制度の問題とかデータとかが扱われているという事だ。

◆少しずつ在日の社会というものも広げていくという趣旨か。
そういうのが見て取れる。

◆この他にも、書証では上げてないが、朝鮮歴史と朝鮮地理という科目があるのだが、それぞれ5年生と6年生の配当ということか。まず、朝鮮歴史については、先生は、かなり詳しく分析をしておられるが、何ページでできていて、何項目あるかを教えてほしい。
記憶で言うが、142ページだったと思う。 読み切り型の項目が42節でできていたと思う。

◆それで、古代史、封建時代、近代、現代というふうに分かれているということか。
そうだ。

◆そのうち南北の分断前を扱っているのは何項目になるのか。
39までは明確に分断前ということになる。

◆40の途中からは分断後ということか。
40が金日成のことで、前半が戦前偏、後半が戦後偏という形になっている。 それで、41が南朝鮮、42が金正日というような流れになっていると思う。

朝鮮半島分断前だから、もちろん朝鮮半島全体の歴史を教えているということか。
そうだ。

◆それから、朝鮮地理の範囲というのは、どういうふうな範囲になっているのか。
朝鮮半島全体の自然地理とでも言うべきもので、気候がどうだとか風士がどうだというような全般的な話とか、後半は、北部、中部、南部という分断線関係なく北から順に地域の特色というのを教えていくというような。中部には分断線が入っているが、それも含めて中部ということで教えているという事だ。

◆そういう形で、朝鮮地理も朝鮮歴史も、多くの部分は南北の分断を関係なく教えているということでいいのか。
そうだ。 民族の地理、民族の歴史というような扱いになっていると思う。

◆同一民族ということか。
はい。

◆その社会、或いは音楽とかもそうだと思うが、それは、日本の教育では代替はできないというふうに考えているのか。
日本の公立学校、私立学校においては、陰に陽にカリキュラムが指導要領に縛られている関係もあり、日本人を中心にした国民教育というような側面が非常に強いと思う。「日の丸」君が代も, 公立学技を中心に強要されているし、そういう中では、そういう民族教育というのは、なかなかやりにくい状況というのはあると思う。

◆朝鮮地理とか朝鮮歴史とかは、とても教えられないという事か。
一部として教えるということはできるとは思うが。

◆その他に、朝鮮学校の特徴というのは何なんなのか。
言ってないところで言えば、言葉だ。 朝鮮語が標準言語になっているという事だ。

◆先ほど示した教科書は、全部ハングルで書かれているということか。
そうだ。 日本語の教科書以外は全て朝鮮語だ。

◆これは一体どういう意味があるというふうに考えているのか。
先ほど、ちらっと言ったように、生活言語が日本語である子供らに、朝鮮学校の間は朝鮮語の世界に漬からせると。言語イマージョンという表現をそこで使っているが、そういう意味合いが強いと思う。だから、そういう意味ではバイリンガルにさせるというような意味合いが強いと思う。

◆民族的アイデンティティ朝鮮語を話せるということについては何か関連があるというふうには考えているのか。
日本にいて、日本語の世界だけ見ていると、それでしか見えない世界というのがあると思うが、そこにプラス朝鮮語の世界というのが入ってくることで世界が広がる。そういう意味合いはあると思う。

◆民族的アイデンティティという言葉も先生は使われているが、日本の教育環境と朝鮮の教育環境では, アイデンティティの獲得の仕方が変わってくる可能性があるというふうに考えているのか。
一様には言えないが、それは、あると思う。

◆日本の学校では、どういうふうな。
これも、いろんな体系があると思うので、一様には言えないと思うが、基本的には、マジョリティが圧倒的に日本人だという状況の中で学校に通うと。 その中で、マジョリティとは違う存在として、民族的アイデンティティが違う存在としての私というアイデンティティの築き方になるのかなというふうに思う。

朝鮮学校では、どうか。
最初から、日本に住む朝鮮人チョソンサラムという言い方をするが、そういうのを前提に教育していくという事だから、そのアイデンティティの獲得の経路が達うという事だ。

◆いずれにしても, 自分が朝鮮人であるという事と出会うということか。
人にもよると思うが。



レイシズムについて

レイシズムについてお尋ねするが、先生がレイシズムというふうな概念を使われるときは、どういう事で使われているのか。
ちょっと学者的な言い方になりますが、授業で言うときには、いろんな定義があるが、大体、欧米中心にレイシズム論ができてきたので、なかなか日本には適用できないところがある。なので、割にオリジナルに定義していて、関係性と言説の相互作用と、申し訳ないが、そういう表現を使っている。関係性というのは、格差があったり、不当な扱いを受けたりというような、そういう関係の問題で、言説というのは、なんでそんな不当なことがあるのかということを説明したり、正当化したり、支えたりするような言葉だったり、概念だったり、考え方、そういうのが、奴隷制というのが一番分かりやすいと思うが、何故、あんな不当な扱いがあるのか、やはり黒人が劣っているからだという言説がある。また、言説がそうやって出来上がっていくと、また、そういう不当な関係性が作られていって、この相互作用という言い方をしている。

レイシズムというのは、一般的に、どういう形をとって現れるのか。
これも、いろいろあるが、一番ひどいのは、もう本当に殺戮という形になっていって、もう少し弱いのでいくと、いわゆるへイトスピーチというのもある。それで、多くは排除という形をとる。アパルトヘイトなんかが一番分かりやすいように。他方で、最近の研究だと、排除だけじゃなくて、包摂するレイシズムというのもあるという言い方もする。

レイシズムの歴史ということで文献も出しているが、レイシズムというのは、最初、どういう形で現れるのか。
レイシズムという概念は欧米でかなり作られたので、そこで念頭にあったのは、生物学的な人種の違いによって起きるレイシズムと、学間的には、科学的レイシズムという言い方をしている。

◆現在は、そういうレイシズム論ということは余りないのか。
今の、よく教科書とかで教えられるやり方と、科学的レイシズムというのが批判を浴びて消えていく中で、新たに文化的レイシズムとか、新しいレイシズムとか、いろんな名前で呼ばれるものが出てくるという言い方をしている。 それは, 欧米の事だ。

◆文化的レイシズムというのは、先生も書いておられるが、どういう事か。
生物学的人種による優劣みたいなことはもう言わないと。一方で、文化の多様性を認めたりすると。にもかかわらず、この国である人々が自分らとは違う何かをやっていると。文化的な何か違いがあるということに対して、それはやめろというような形で、かなり抑圧、同化を迫ったり、排除していったりということをやっていくと。そんなものだ。

◆文化的レイシズムというのは、どういう特徴があるか。
文化の中身もいろいろあるが、宗教もあり得るし、言語もあり得るし、単なる生活習慣というようなものも含まれる。そういうのが差異の資料として使われるということだ。

◆他には、差異が支配集団のアイデンティティの脅威になるということも言われているが。
そうだ。なぜ排除するのかということを説明するときには、そんなのがのさばったら、たまらないというような意見合い、我々にとって脅威になるというふうな言い方をする事になる。

◆あと、差異の次元は歴史的な経緯がある。奴隷とか、植民地支配。そういうふうなことを選択されるというふうに書いているが。
レイシズムの主要な源泉が奴隷制奴隷貿易と植民地支配があったというのは、2001年のダーバン会議とかでも世界的に言われた事だ。

◆そういう歴史的経緯の下で、違いが差別として選択されるという事か。
はい。

◆具体的に本件のことで聞くが、例えば、まず、本件のきっかけになったのが、学校の向かいの公園を50年間不法占有していると、それを取り戻すというふうな言説だが、それは、レイシズムの現れというふうに考えていいのか。
その主張そのものがレイシズムと言うかどうか分からないが、そういうのを口実にああいう行為をしたというのが正にレイシズムという事だ。

◆もう少し付与してほしい。
もう少し言うと, 法律の業界はよく分からないが、少なくとも、社会学とか歴史学の分野の中では、そういうのが非常に典型的な事例として言える部分だ。つまり、この空間というのは、例えば白人の多い地域だったら、我々白人が占めるものだと。オーストラリアという国は我々白人の国だと。 そこで、ある程度、多樣性は認めたはいいけれども、あるラインを越えると排除するみたいなのが、最近の文化的レイシズムの中では、よく言われていることで、その中にはこの空間は我々何々人が占めるものだというのがある。

◆例えば, 公園でいくと。
この場合でいくと、公園というのは日本人が本来占有すべき場所なのに。そこに異物が入り込んでいる。だから排除するという論理になっていると思う。だから、よく言われる議論の応用編みたいになっていると思う。

◆(証拠物、第14口頭弁論被告本人八木康洋氏の速記録を示す)「私たちは、在日韓国人在日朝鮮人全体に対して憎悪を向けているわけではない」とあるが、そういう言説については、これも、やはりレイシズムの一つの表現だというふうに考えているのか。
このような表現というのは、割に歴史的に見覚えのある表現で、戦前で言えば、不逞鮮人という表現がある。戦後で言えば、第三国人というような表現があるが、一部の悪い人がいると、反日的な存在がいたり、秩序を乱したりする存在がいるという名の下に、過剰にそれが一般化されていって、いろんな監視態勢が敷かれたり、差別が行われたりというようなデジャヴがある。

◆これも典型的なレイシズムというふうに言っていいか。
典型的か分からないが、歴史的によく操り返されてきたような事だと思う。

◆今、過剰な一般化というふうに言われたが、過剰な一般化というのは、レイシズムの一つの特徴というふうに言っていいか。
よく見るパターンだ。 一つの経験が一般化されて、ある民族が投影されるというパターンだ。

◆(証拠物、第9回口頭弁論被告N氏の速記録を示す)彼女は、在日コリアンと一緒に商売をしようという話になって、400万円の借金を背負わされたと。そういった詐欺行為を行った人とかは本当の国に帰ってほしいと。それが全ての外国人を平等にして下さいという主張に繋がっているが、それも、レイシズムの一つの現れというふうに考えていいか。
これも、その事件自体は、すごく、この尋問を聞いていたので、大変な目に、遭ったなと思つたが、そこからやはり過剰一般化が進んでいるなというふうに思いながら聞いていた。

◆(証拠物を示す)「朝鮮進駐軍の元締めが朝鮮総連だったんですよ」と、戦後、朝鮮人が不法占拠をして、「その士地に、パチンコ、焼き肉、風俗店、などなどなどを出店し」と、被告は真実だというふうに言っているが、そういうふうな「事実」について言っているということも、やはり、それはレイシズムの内容になるのか。
その学校にとっては関係ない話だ。それから、朝鮮進駐軍というのは、そもそも最近の造語ですし、全く関係ない事を攻撃の材料として使って、その場で言っているというだけだと思う。

◆あとは、例えば、ゴキブリという言い方とかがあるが、それも,やはり一つのレイシズムか。
本当に、人間に対してそんな言葉を言う人がいるのだなって感じだが、ゴキブリという言葉をなんで使うんだろうということに対しては、考えたことがあって、つまり、ゴキブリは、家の外にいたら、誰も排除したりしないわけで。やはり、自分らの家の中にいるから,潰したりとか、排除したりするという・・・。

(裁判長)
この辺りになってくると、大学の先生にレイシズムですかということを質問するレベルではないんじゃないんですかね。
だから、そこに、その言葉の何となくニュアンスが感じ取れるなと思ったことはある。

◆あと、拉致の問題とか、一般的に政治的言論というふうに言われるものも文脈によってはレイシズムになるというふうに考えるのか。
それを言うべき場というのはあるかもしれないが、そこで言って何になるかという事を言うということは、別の動機があるというふうに僕は思うが、そういう点で、排外主義の道具になっている部分があると思う。

◆学校の場で、レイシズムと思われる言論がまき散らされたという事で、それについて何か意見等はあるか。民族教育ということに対する侵害という点で、どういうふうに考えているか。
保護者とか教職員の方が、その辺は、かなり痛烈に感じておられると思うが、普通に学校で教えていて、こういうことが起きるんだと言う前例になってしまったという事だ。 だから、教員にとっても、学校に子供を送る保護者、あるいは、これから送ろうと思っている保護者にとっても、やはり一種の覚悟みたいなものを要請することになってしまったというふうに思う。 それは,心的なストレスになるだろうというふうにも思うし、それから朝鮮学校というのが日本の学校から分離する形で自主的になされている。分離型でなされているということ自体、ある種のシェルター的な役割りをしていると思うが、そういうところまでやってくる事例になっちゃったということは非常に大きな打撃だろうというふうに思う。




原告側尋問終了。



(次回は反対尋問)