第16回口頭弁論傍聴記 3


証人:当時、学校教務主任であったB氏。



原告側主尋問。



◆12月4日の街宣。在特会のホームページに街宣を予告する動画がアップされたが、その予告は校長から聞いて知ったのか。
そうだ。

◆予告動画を見てどのように感じたか。
それまで、聞いたこともない会、動画をみて下見などがあり、本当にくるかもしれないと実感。どう対処するのか真剣に考えた。

◆どう対処というのは、子どもたちへの影響の不安があったという事か。
そうだ。

◆不安を抱いたという事だが、陳述書によると、11月25日に校長や教師5名で会議を開いたとある。
とりあえず南警察に事前申請をして、地域の関係者団体に連絡をとり支援要請を行う。保護者に対しては何人かには知らせたが、まだ来るかどうかわからなく、事前に知らせれば混乱もあるかもしれないので学校で対処するように決めた。

◆学校の対処はどのようなものか。
学校に入れないように門を閉じて、女性教員は遠い教室に子どもたちを移動させてカーテンを閉めて見せないようにして待機させる。男性教員は街宣の様子をビデオ撮影、挑発には乗らず抵抗をしない。警察が来たら解決してくれると思うので、それまで我慢するようにした。

◆それを確認したという事か。
はい。

◆陳述書によると、職員会議後すぐに当時の校長が、実際に南警察署へ要請に行き、証人も町内会長に挨拶をおこなった。
そうだ。
 
◆そして12月4日午後1時頃、在特会が実際にやってきて今回の事件を起こしたが、その時間帯、幼稚班は課外保育で校外に出ていた。
はい。

◆初級部1年から3学年はどこで何をしていたか。
各自の教室で昼食をとっていた。高学年は交流会があったので講堂にいた。

◆1年から3年生の教室は何階にあるのか。
2階だ。

在特会が来た南門から順に何年の教室があるのか。
一番南が1年で、2年、3年の順だ。

◆高学年は京都朝鮮第二初級学校、京都朝鮮第三初級学校、滋賀朝鮮初級学校との交流会をしていたと言うが場所は3階の講堂か。
そうだ。

◆3年の子供で聞いた話はあるか。
水道が校舎の中になく、外の中庭にある。そこで歯磨きをしていた子がおり、(在特会に)声をかけられた。

◆その水道は校門から5メートルくらいの距離にある水道か。 
はい

◆はじめに在特会がやってきたことに気付いたのは誰か。
当時の校長だ。

◆ 証人はそれを聞いてどうしたのか。
急いでビデオカメラをもって南側校門に行った。

証拠写真で当時の位置、児童がいた事を確認)

◆撮影をはじめてその後はどうなったのか。
徐々に相手が騒ぎだし、だんだんと声が大きくなり怒号をあげはじめた。

◆他の教員たちはどうしていたか。
怒声を聞きつけて、上の階から男性教員が降りてきた。

◆相手方は怒声をあげたというが、どんな言葉を覚えているのか。
「学校が土地を不法占拠している」という発言と「スパイの養成学校」など差別的なものだった。

◆被告らは、いわゆる「抗議」だ、という説明をするが、実際に被告らの発言を聞いていてどう思ったか。
子ども、朝鮮人に向けられている。「キムチ臭い」「端を歩いとけ」など侮蔑的な発言で、ずっと1時間にわたり言っていた。

◆そのようなひどい暴言にさらされながら対応にあたっていたが、そのときの気持ちはどうだったのか。
とりあえず校長が警察に電話してくれたので、警察がくれば阻止してくれると思い、警察がくるまでの辛抱だ、子供たちの安全を守るんだと思っていた。

◆実際、警察は来たか。
はい、10分くらいで来た。

◆警察はどのような対応だったか。
来たのだが、止める気配はなし、言う事に関しては止める事はできないとして止めてくれなかった。

◆証人らは彼らの発言に対して何か言い返したりはしたか。
事前打ち合わせのとおり、言い返しをせずに我慢していた。

◆騒ぎを聞きつけた保護者の中には我慢できず、言い返そうとする保護者に対してどうしたか。
そういう方もおられたが、気持ちはわかるが我慢して黙ってとお願いして、それを止める役割をした。

◆そのときの思い。
悔しいだけだ。

在特会は、さらにエスカレートしてスピーカー線まで切断し始めたが、それをどう思ったか。
言うのを止められないと言うが、これはさすがに警察も止めるだろうと思ったのに止めなかった。ショックを受けた。この時点で、彼らがすべてやりつくすまでただ耐えるしかないのだと思った。

◆そうして、彼らもどんどんどんどんエスカレートし、テンションがあがっていき、最終的に街宣は1時間ほど続いた。1時間をふりかえって思うことは。
正当な話し合いなら抗議も聞くが、警察が来ても止めることはできない。残念な思いもしたし、つらい思いをした。逆に、またこういう事があったなら、自分らで守らなくてはいけないと感じた。

◆生徒たちの様子について尋ねる。男性教員は南側校門で対応にあたっていたということだが、校舎内は、生徒たちと女性教員がいたと。どんな対応をしたと聞いたか。
3階講堂の高学年は、窓とカーテンを閉めて見えないようにしたようだ。スピーカーの音量を最大に、トイレに行く間に怒号を聞かれないよう、トイレに行くのを我慢させたと聞いている。低学年、特に1年生は校門に一番近かったので、2年生の教室に移動させ、3年生は歯磨きもいかないでいいという事にして、本を読ませたりゲームをした。

◆そのように、子どもたちに見せない聞かせないために対応をしたということだが、その対応によってこどもたちへの影響は完全に防ぎきれたか。
いいえ。教室に近い距離だったので、声が聞こえていたようで、3年生のこどもの中には、水道のところで在特会から「いいもんあげるから門あけて」と変な人に声をかけられた。そういう騒ぎがあって、誰か来たの?と恐怖もあって、段々と伝染していき、なんで自分の誕生日にこんな目に合わなければいけないのと言って泣き出す子がいて、それが広まって学年全体が泣き出したようだ。また、高学年は本来予定していないような先生の動きや漏れ聞こえる怒号から、異常事態と察していた。

◆そのような生徒の様子をうけて、貴方はどんなことを懸念したか。
ともかく子供たちが傷を負ったというか、学校はそういうとこじゃないのに、子供たちに怖い思いをさせた。すぐに去れば、警察もきて止めてくれたなら。1時間という長い時間、ずっとそういう発言が耳に入ったというか、自分たちが悪いからこうゆう目にあったとされるのが心配だ。

◆自分たちが悪いというのは先生たちの対応も含めてか。
いわれなき罵声を浴び続けられても言い返さなかったことによって、子どもにとっては、自分たちが悪いから、こうゆう目にあっても先生も止めなかったんだ、という自己否定につながる。

◆街宣の様子は動画配信されている。動画について生徒から聞かれたことは。
動画を見たという子が何人かいた。家に帰って実際に動画をみて、何故こんなことが起こったのだと質問を受けた。

◆当時、(5年の担任であったDさんの陳述書を示し)「在特会を目に触れない、聞こえないように必死にガードしたが、動画のアップロードなどで教員の努力は完全に無に帰し、児童に大きな精神的ショックを与えてしまった」とあるが、この点について同じ思いか。
そうだ。

◆街宣は午後2時を過ぎにようやく終わったが、その時点ですぐに、学校運営は平常どおりに進められたのか。
高学年に関しては、食事をとって交流会をして2時前に下校と言うスケジュールだったが、予定が遅れて下校時間が遅れ、帰り道が心配だったので待機させた。幼稚班は、昼過ぎにスクールバスで昼前に帰ってくる予定だったが、帰ってくる状況じゃなかったので、待機させた。また、その幼稚班が乗って戻ってくるバスで低学年も下校する予定だったので、低学年の下校も遅れた。

◆事件後 当日の午後5時半から職員会議を持ったというが、そこで決まったこととして、保護者に説明すること、心のケアのために教員らが聞き取りを行うこと、子どもの安全を最優先する方針が決まったとあるが。
はい。

◆職員会議は、本来そういう会議をする予定の会議だったのか。
いいえ。本来は学校業務の会議であり、入学説明会の準備があり、その役割分担の話しであった。

◆事件当日、保護者からの問い合わせや心配の声が上がったのか。
はい。子供から聞き、保護者同士の連絡がまわってきて、問い合わせの電話がたくさんあった。
◆陳述書にあるとおり、保護者の方に説明のためのお知らせを配布したり、メーリスを作ったり、12月8日には保護者説明会も行ったようだが。
はい。特に高学年の子どもたちには、学校が公園を使用してきた歴史的経緯、相手の人が言っている話し、私たちは何も悪いことをしていない、それ以上に、多くの日本の方々が応援してくれていることを話し、そして公園を地域の人らと仲良く使っていこうという話をした。

◆(E氏陳述書を示し)当時、3年の担任であったEさんは「生徒の様子として、在特会はどんな人?とか、なんで自分たちがこんな目に合わなければいけないのか、日本人ってこんな人たちばかりなのか、他の学校とは仲がいいのに大人たちは仲が悪いのですかという質問がありました。それに対して教師はそんな人ばかりではないと説明し、子供たちが日本人を誤解し、誤ったコリアンとしての意識を植え付けないように教育をした」とあるが、このように教師として配慮したという事か。
はい。

◆子どもの安全対策について尋ねる。まず、2学期終了までの間どのような対応をしたか。
安全を心配しそれが一番大事なので、できる事からしていこうとなり、緊急連絡網をつくり、南門と北門があるが(それまで)門をあけて自由に公園に出入りしたが、昼間も鍵を閉めるようにした。また、インターホンも設置し、それで門の開け閉めを行った。
さらに複数の教員を配置し見守り、通学路は3方向あるのだが、引率の先生も一人から二人とした。

◆保護者の方々も協力したか。
はい。人手が足りないのでお願いした。

◆(証拠物である見守り表を示し)これ以外に付け加える事はあるか。
朝周辺見守りもあったが、下校見守りもあった。

◆陳述書によると、保護者と当番を作り2011年7月まで見守りを続いていた。理由は何か。
12月4日の一回で済めば終わりかなと思うが、その後も街宣が繰り返され、動画配信もされ続けていたことにより、影響が大きいだろうと思ったからだ。


原告代理人交代。


◆12月4日、ずっと言われっぱなしの様子を子供たちに見せるとの影響の話があったが、本学校で行われる民族教育への影響、子供たちへの民族的アイデンティティへの影響について、もう少し教えてほしい。
日本で住んでいるが、朝鮮人として何も悪い事はない。誇りをもつ事を教えている。だから自分の存在を認める教育をしている。被告らの発言はその存在を否定している。それを止める事ができなかったという事は、先生の言っている事は実はそうじゃないのではないかと。学校の前で先生もたくさんいるのに、それを言われっぱなしで先生らは誰一人否定していないとこを見れば、習ってきた事を全部ひっくり返されるものに繋がるのではないかという事もあるし、今度は自分が狙われるのではないか、存在が否定されるではないかというのが憂慮される。

◆(12月4日)街宣後、保護者らが心配して問い合わせがあったというが、その内容はどのようなものか。
子供の安全が第一なので、高学年では電車で通学する子もいる。こういう事を知らなかったという事で、事前に説明がなかったことについて不満もあった。また、緊急に連絡を回してくれれば迎えにいくなら迎えにいったのにという声があった。さらに、彼らはまた来るのか、どのような対策を練るのかという質問もあった。


(休憩が入る)


◆1月14日の街宣について。記録によると2010年1月4日、在特会のHPに、同月14日に、再び第一初級学校に対する街宣を行うことを予告が出ていた。
はい。

◆ 予告を受けて、学校の対応は。
校長と私が協議をした。

◆それを受けて8日に保護者会が開かれている。どのような意見があったか。
安全への心配などがあり、休校にすべきだという意見もあった。また、何も悪いことをしているわけではないのだから、授業を行うべきだという意見などさまざまな意見があった。

◆最終的はどうなったのか。
カリキュラムの問題もあり、できるだけ授業をしようとなり、街宣の前の時間に授業ができるという事で、午前中は授業を、午後は課外授業を行うことになった。

◆8日から14日まで実質4日しかないが。その短い期間で準備はできるのか。
ふつう課外授業などは1カ月くらい前から下見にいったりして準備をするが、ともかくしなければと大変だった。各学年の教員らが手分けして課外授業先を決定し、観光バスをチャーターした。とにかく大変だった。

◆チャーター費用もかかる。どう工面したのか。
理科や図工の教材を安価なものに切り替えたり、キャンプ行事費用を切り詰めることで補った。

◆こうした準備に並行して警察に警備要請をしたり、その対応を協議する必要もあった。
はい。

◆幼稚班は第2初級学校に委託するような形になった。
はい。

◆その準備に追われていた間、本来はどんな業務を行わなければならなかったのか。
新学期の授業準備、2月の学芸会準備等で、体育館がないので借りるとかがあり、1月14日以降に詰めざるを得なかった。

◆子どもたちの様子について尋ねる。子供たちに、課外授業をすることになったと説明はしたか。
はい

◆子供たちの反応は。
子供の中には、何もわからずに喜んでいる子もいたが、大体わかるので、学校から出て行くのはなぜ?わたしたちは悪いことをしたの?また在特会がくるから逃げるのでしょと質問してくる子もいた。

◆それに対してどのように答えたか。
わたしたちが悪いわけではない、逃げているわけではない、でも安全のためには避難する必要があって避難するのだと説明した。

◆ 答えながら思ったことは。
12月も止められなかったのに、また来ると。先生はそうゆうけれど、不安があるし、やはりこちらが悪いのではないか。朝鮮人だからこのような目に遭うのではないかと子どもに思わせてしまうのではないかと非常に心配だった。

◆1月14日、午後2時20分頃、また街宣にやってきたが、学校には校長と証人がいた。
はい。

◆課外活動に出ていた生徒たちは、何時頃帰ってくる予定になっていたのか。
4時くらいに終わると見込んでいたので、4時40分くらいに。5時には保護者に迎えにきてもらう予定だった。

◆ところが街宣は、その後、午後4時すぎまで続いた。街宣終了後、街宣に参加していた人たちは、その場をすぐに去ったのか。
いや、いた。終わる気配を感じなかった。

◆その状況を受けて、課外活動に行っていた生徒たちを引率していた先生にはどのような指示をしたのか。
とりあえず、バスで待機するように指示をした。インターのそばで、安全になるまで待機した。

◆子供たちを乗せたバスが学校に戻ってきたときの学校周辺の様子は。
警察車両や警察官がおり、子供たちも普通じゃないとわかっていたが、物々しい雰囲気だった。

◆この日、保護者が迎えに来る事になっていたのか。
そうだ。迎えにこられないところは、近所の人にお願いして、他は学校で送った。

◆本来ある下校時刻を過ぎて、ようやく下校できたと。
はい。

◆生徒たちの様子は。
幼稚園の子は(普段)2時半に下校しているのが、バスで待機しぐったりしていた子がたくさんいた。

◆保護者の方の反応はどうだったのか。
警察車両が多くあり赤色灯がまわり物々しい雰囲気の中、学校の状況は正常じゃないのだと危機感を抱いた。

◆その後、対応協議したという事か。
はい。

◆3月28日の街宣について。この街宣はネット上に予告されたわけだが、それを受け、 学校の対応としては、警察への支援要請をしたり、仮処分申立てをした。
はい。

◆それで仮処分については24日に決定が出て、新聞報道もされた。このとき証人はどのように思ったか。
ほっとした。裁判所が命令を出してくれている以上、これでやっと守られると。

◆実際には3月28日に街宣が行われたわけだが、この日は、校内ではどのような業務が行われていたのか。
幼稚班を担当する女性教員3名と、サッカー部の試合があったのでコーチがいた。それと何かあってはいけないので、校長と私がいた。

◆この日も街宣が行われることがわかって、この女性教員らについては、どのような対応をしたのか。
危ないという事で帰宅させた。

◆子供たちは、全く学校には来る予定はなかったのか。
この日サッカー部が他校で試合を行っていて、スクールバスだったので学校に戻って下校する予定だった。

◆どういう影響があったのか。
学校に帰れる状態じゃなかったので、九条烏丸交差点で子どもたちを乗せたバスを停車させ、そこで解散せざるをえなかった。保護者にはその連絡をした。

◆保護者たちの反応はどのようなものだったのか。
心配であった。

◆仮処分の内容というのは、半径200mのところまで街宣を禁止するという内容だった。
はい。

◆証人は、被告らが半径200mラインを超えて学校に接近してきたことに、どのようにして知ったのか。
音も聞こえてきており心配だった。200m手前で迂回するだろうと思っていたが、入ってきたので焦ったし、衝撃だった。

◆3度目は、仮処分を無視して行われた。どう思ったか。
期待していたぶん衝撃はとても大きかった。何回も来るという状況が許されている。どうすればいいのか、保護者もずっと心配を続け、自分たちも緊張し続けなければならないのかと思った。

◆陳述書では、ネットで動画を確認した子が事件を知って夜泣きをするようになったとか、女子の中でスピーカーの音が聞こえるとビクっとする反応をしたりだとか、知らない人が公園にいると在特会だと言うようになったとかの様子が出てくる。3月28日以降、証人は子どもたちへのフォローで特に気をつけたことはあるか。
今回の事で子供たちが、朝鮮人として、自分に対して否定的に思わないように説明して、また、自分たちは悪くないと、何かされているがそれ以上にそれに反対する人らがいる事を伝えながら自己否定にならないように、暗くならないように努めている。

◆学校全体の雰囲気で変わった点は。
少しでも変な動きがないか過敏に反応するようになった。明らかに写真撮影していたりとか、ビデオを撮る人らがいたり、そういう人が増えた事で、学校周辺で気が抜けない状態になっていた。幼稚班は散歩とか行っていたが、なかなか行けない状況になり、男性教員と一緒にという事になって不審者がいないか常に注意して見守る。さらに、いたずら電話も増えた。無言からはじまって、あちら側の主張を言うのが何回もきた。一回くると無下にきれないので受けると10分、20分、30分となったりとか、無言電話は切っても切ってもかかってくるので線をはずした事もあるが、やはり学校なのではずせないとなる。大きな支障をきたしている。



(次回に続く)