在特会の手法と朝鮮学校を取り巻く環境

第6回口頭弁論が終わり、在特会ら側代理人たる徳永弁護士は再び毛利透氏の著作を引用し、少数意見者の保護をうたいそれがあたかも表現の自由を護るもんだとの書面を提出した。(書面自体を精査したものではないが、裁判内発言によりそう判断)
これは、自らのふるまいを棚上げして対抗言論を臆面もなく利用する在特会の手法そのものに他ならない。
この点について「人権と生活32号(在日本朝鮮人人権協会出版)」に掲載された同志社大学の板垣竜太氏「現代日本レイシズム点描(朝鮮学校に対する攻撃・排除を事例に)」において筆者がまさにそのとおりと思う論考がなされていたので紹介したい。
なお、この論考は刑事裁判において徳永弁護士が最初に毛利透氏の著作を引用し被告を弁護した刑事事件第二回公判の後で書かれたものであるが、再び毛利氏著作を引用した今でこそ読んでほしい論考である。
以下一部抜粋。



市民的対抗運動としてかたどられたレイシズム

在特会らのグループによる2009年12月4日の京都朝鮮第一初級学校への襲撃事件は、誰の目にも明らかなレイシズムにもとづく暴力事件であった。ここでその内容は繰り返さない。ここでは、彼らの「運動」の形態における一つの顕著な特徴について論じたい。
本年2月15日、私は京都地裁で開かれた対在特会の民事裁判口頭弁論を傍聴したが、そのときの被告(在特会ら)側の弁護人の弁論の弁護に一瞬耳を疑った。弁護人は、毛利透・京都大教授の「表現の自由」(岩波書店)の一部、特に立川反戦ビラ事件についての諸説を引用し、「少数意見の尊重こそが民主社会をつくる」と主張することで、襲撃事件を正当化したのである。その前に、2月1日に開かれた刑事裁判の公判でも、被告側弁護団は、かれらのやったことは「公益を損害」する朝鮮学校の行為に対する抗議で、警察の監視下でおこなわれた「政治的行為」であると弁護した。私は、こうした主張にまず唖然とし、次に憤りを覚えた。戦後、さまざまなかたちでなされてきた対抗運動がかろうじて蓄積してきた表現の自由に関する議論を、かれらは流用したのである。
これは単に法廷での弁護のための方便ではない。かれらはマイノリティ意識、被害者意識をもって社会運動を展開している。なぜそういう意識が可能なのか。在特会の設立趣旨文には「GHQによるWGIP(日本国民への戦争認罪意識洗脳プロフラム)から始まった反日極左思想の拡大によって、日本国民の多くがやってもいない犯罪行為の責任をなすりつけられ、不必要な罪悪感を持つようになりました」とあり、この「自虐史観」「極左思想」「病的妄想」から日本人を解放することを自らの使命としている。かられからすれば、日本の歴史的な責任論も、在日外国人の権利擁護の主張もすべて「悪しき外部」による洗脳の結果ということになる。しかもマスコミも教育もこの洗脳に荷担しているから、在特会のような主張はマイノリティとならざるを得ない、その主張を日本社会に伝えるためには、インターネットを駆使するし、場合によっては実力行使に出てもしかたない、というのがかれらの自己正当化の論理の中心にある。
それこそ「病的妄想」というべきその自意識には先例がある。すなわち、それは1990年代に誕生した「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」のような歴史修正主義者諸団体、さらにインターネットの普及とともに拡大した「嫌韓流」の延長線上にある。実際、在特会の会長である桜井誠は、ベストセラーとなった「マンガ嫌韓流」の便乗本「嫌韓流実戦ハンドブック」1〜2の著者でもある。以前私が検討したしたことがあるように、「嫌韓流」の特徴の一つは、かれらが「反日的」「サヨク」とみなす議論を「論破」するためのノウハウを提供する点にあった(拙稿「嫌韓流の解剖学」『「韓流」のうち外』御茶ノ水書房、2008年)。それをネット空間のみならず、現実の場で、時に暴力もともなって実践しているのが在特会である。だからこそ対抗文化の手法やその正当性の論理を転用するのである。
だが、かれらの自意識は倒錯している。かれらの主張なるものは、悲しきかな、決して日本社会の「少数意見」ではないからである。たとえば、再び与党の座につくことを狙っている自民党は、ホームページにも掲載された「朝鮮学校は無償化の対象とすべきではない事を強く表明する決議」(2010年3月11日)で、「朝鮮学校には本国である北朝鮮が強く関与しており、教科書も労働党の工作機関である統一戦線事業部が作成しているとされ、純粋な教育機関ではなく、北朝鮮の体制を支えるためのイデオロギー学校・対日工作機関である疑いが強い」と述べている。これは在特会らが京都朝鮮第一初級学校の門前でがなり立てた内容と同様である。また、今や多くの人が情報を得る手段としているインターネットの検索サイトで朝鮮学校のことを検索すれば、残念なことに、在特会のような主張で満ち溢れている。日本国家を後ろ盾として、エスニック・マジョリティの吐く差別的な言辞が「マイノリティ」であることなど、あり得ない」



まず、在特会の前史において、「新しい歴史教科書を作る会」が重い位置を占めるというのは研究者の間では一致した見解と言える。この点については裁判とは離れるがいつかまた紹介できればなと思う。
次に朝鮮学校が置かれている環境については筆者も実感するものがある。例えば在特会に対して猛烈な嫌悪感を述べる人が、こと朝鮮学校の事になると批判的な言動になっているのを目にする事がある。さらに板垣氏が述べる自民党の決議以外にも政府見解として「この国には差別はない」そうだ。これは先の口頭弁論で徳永氏も近い引用をしていた。
これが朝鮮学校の置かれているこの国の環境である。
今回は書面をまだ確認してないので、これらにあえて論考を加えないが、体を張ってこの国の表現の自由を守ってきた先人たちの思いを踏みにじる在特会厚顔無恥な行いに加え、「差別がない」とされるこの国の朝鮮学校が置かれている厳しい環境に思いをはせてもらえれば思う。
そして朝鮮学校弁護団の望むハードルはこれらが支え高いものとなっているのが現状である。



最後に一部抜粋という失礼な掲載にもかかわらず快諾をして頂いた板垣氏に感謝申し上げます。