学校側第一準備書面  2 

「学校側第一書面 1」より継続


エ 日本における朝鮮学校の意義
(ア) 日本の学校における在日朝鮮人としてのアイデンティティヘの脅威
前記のような歴史的経緯により、日本の学校に通学する在日朝鮮人生徒らは、日本名の使用をはじめ、日々、民族的アイデンティティの危機に晒されていることとなった。日本は、長期にわたり朝鮮半島に対する植民地支配を行いその中で言語を奪い、名前を奪うなど、朝鮮民族の民族性そのものを抹殺しようとしてきた経過がある。
このなかで、日本にいる朝鮮民族は絶えず日本国との同化の危機にさらされてきており、現在もそのような状況が続いている。この一つが、日本名の使用である。韓国では、1946年10月には韓国では朝鮮姓名復旧令(46.10.23.軍政庁法令122号)により、日本名が無効であることが宣言され、戸籍上の創氏が抹消された。
しかし、日本では在日朝鮮人は、解放後も日本の国籍を持っていることとされたこと、民族差別がひどかったことから、多くが創氏名の使用を続けた。また「日本名」は、戦後も外国人登録上の通称名として残存し、帰化時に創氏が使用されてきた実態がある。
現在、在日韓国・朝鮮人の約8割は、日本の学校に通っており、その中では日本名を使用しているものが数多く存在する。そして、このような子供たちは、自己が本名でなく日常的に通称名を使用していること、あるいは、通称名があるという事実そのものから生ずる傷つきがある。植民地支配によって醸成された差別意識を一部の日本人が未だに温存している事実、また社会的な差別、結婚差別などの差別が完全に解消されていない現状(本件事件により明らかである。)と相まって、これらが、朝鮮人の子供らの人格生成にとってにとって重大な危機となることは明らかである。

(ィ)在日朝鮮人アイデンティティの危機について(体験談)
この通称名の使用について、朝鮮高級学校教師の体験談では以下のような事例が紹介されている(「日本の中の朝鮮学校」)。
「ある日、いつものようにみんなでお菓子を食べながら雑談をかわしていると一人の女の子が「先生、私、死にたいと思うときがある」と言い出し、私を驚かした。とてもそんなことを考えているようには見えない、どちらかといえばたくましく生きていくタイプの子だったので、死にたいなんて言葉をこともなげに言う彼女に私は唖然とした。
『好きな人がおるんよ。その子も私のこと好きや言うてくれてんの。その子、私の家にきたい言うけど連れていかれんのよ。家にはハンメ(おばあちゃん)がいるから。ハンメ見たら誰でもすぐ、朝鮮人や分かってしまうん。やけ私、早よハンメが死んだらええ思うてしまうんよ。ハンメは私のことたいがいかわいがってくれるのに。情けないじゃろ。そんなん考えとったら親まで憎らしいなってくる。なんで朝鮮人に生んだんやろって。あんなこんな考えとったらうっとうしいなってね』
私は胸がぐっとつまって言葉が出なかった。私に代わって日本学校の先生が『おまえらもいろいろつらかったんやな。』とおっしゃった。と、その時、ある生徒がぱっと立ち上がって『あんたらにはわからんよ。私ら小さいときどれだけつらかったか。勉強時間に朝鮮てことばが出たら身体中の血が抜けていくような気がするんよ。手は冷たいのに顔が赤うなってるような気がするし。誰か見てるような気がするの。仲良かった子がちょっと冷たかったら(あ、ばれた?)って思うの。一番最初に。あんた朝鮮みたいなカツコしなさんや言うたらみんな笑うから、私は一番大きな声で笑ったわ。よう、自分からも言うたわ。そのたんび私の心のなかはズタズタ、ボロボロや』
私は、その日どうやって帰ったのか、どうしても思い出せない。本当に、頭をがーんと殴られたというような表現がそのまま当てはまる。
『あんたらにはわからんよ』
彼女は、日本の先生にその言葉を投げつけた。しかし、その言葉は私の胸にもぐさりとつき刺さった。」

(ウ)上記事例の評価
この在日朝鮮人の少女は、通称名で学校に通っていたのであり、日本人のように振る舞ってきたのである。しかし好きな男の子ができて、自分が朝鮮人であることを隠してきたこと、そして、朝鮮人であることがその男の子にわかってしまうことに恐れを感じているのである。
そして、これは、自分の出自への怒り、両親への怒り、ひいては自分自身への怒りとつながっているのである。在日朝鮮人の子供は、日本の学校においては、このような自己否定を強いられる可能性が大きく、青年期の発達に必要な自己同一化への可能性を大きく減じられてしまうのである。
また、日本人教師に対して「あんたらにはわがらんよ」という言葉を投げつけた子供の発言は、勉強時間に朝鮮という言葉が出てくるたびに、出自を知られまいとしている子供の気持ち、そして、朝鮮を他国の出来事として捉えている日本人の子供たちの中での孤独感、また、自分だけが違うという疎外感が痛いほど伝わってくるのである。
そして、上記の子供の発言は、日本の公教育の中で朝鮮人は存在しない、見えないものとして扱われているというもう一つの重要な事実を提示している。
日本人教員が、何気なく口にする朝鮮という言葉は、日本人がみた朝鮮又は朝鮮人であって、そこには、在日朝鮮人の子供がクラスに存在することについて何らの認識や配慮もなされていないのである。日本にとってどのような事実であったかは、朝鮮にとってはどのような事実であったかとは必ずしもイコールではなく、多民族が存在する教室の中では様々な立場の者が対等に物事を捉えられるようにすることが本来の教育であるが、民族的マイノリティにはそのような配慮がなされることはほとんどないのである。

(エ)李刃順氏の分析
この点、「在日朝鮮人の民族教育」「李月順、『在日朝鮮人』李鐘鳴編、明石書店)は、この点、以下のとおり分析している。
「日本の学校で、多くの在日朝鮮人の子どもたちは、民族的に『見えない』存在である。日本の子どもたちにとって民族的に『見えない』だけではなく、在日朝鮮人の子ども自身が自らを『見えない』存在としてとらえる場合が多い。在日朝鮮人の子どもたちの多くが『本名(民族名)』ではなく、『日本名(通名)』で通っていることが一層見えなくしている一因でもある。では、なぜ、本名ではなく、『日本名』で通っているのか。
『本名』を使うということは、自らが『朝鮮人』であるということを明らかにすることである。自らを民族的に明らかにする『本名』を使わない・使えない状況は、日本社会での在日朝鮮人の位置の反映でもある。戦前における『進んだ』日本と『遅れた』朝鮮に象徴される偏見と差別のありようが戦後も問い返されること再生産されてきたことがある。それは、単一民族観を当たり前とする社会でもあった。このような日本社会で生きていくためには、民族的に『見えない』存在として生きていることが求められたのである。ただ、この場合、単に民族的に『見えない』だけでなく、自らの民族的アイデンティティを育むことを否定するものでもあった。日本社会での『朝鮮』をめぐる負のイメージだけが在日朝鮮人の子ども違に内面化され、自らを民族的に『見えない』存在に捉えるのである。
また、日本人の子ども達もこうした日本社会のありようを反映し、民族な違いを『見えない』『見ようとしない』状況を生み出してきた。
民族的な違いを認めたうえでの『平等な』人間関係を作るには、どうしたらいいのかを考えるというよりは、『自分には関係ない』ものとしてとらえ、民族的な違いに『触れることは良くないこと』といった表面的な理解に陥っている場合が多かったそのことは、偏見と差別の問題から目をそらすものでしかなく、なぜ、在日朝鮮人の友達が、日本名を名乗っているのかを考えないまま、『日本名』を使うことを結果として強要することになる。
一般に在日朝鮮人の子どもは、小学校高学年になると民族というものを意識するようになる。この場合、自己の民族に関して基本的な知識がなく、負のイメージとしての『朝鮮人』として捉えられる場合、朝解語を話す祖父や祖母の存在は、日本人の友達の前では隠しておきたい物、恥ずかしいものとして捉えられる場合がある。朝鮮の文化的なものは、どちらかというとふれたくないもの、少なくとも日本人の前では隠しておきたいものとして捉えられる。」

(オ)小括
以上のように、現在の日本社会および日本の公教育では、在日朝鮮人が自己の出自を屈託なく語れる前提条件を欠いているのである。その理由としては、公教育に通う子供の大部分が日本人であることから教師やその影響を受けた子供たちは少数民族に対する配慮が不十分であること、日本人が植民地支配の負の遺産から完全に脱却しておらず未だに差別意識が存在すること、大部分の日本人が「単一民族神話」を受け入れており、無意識による同一化の圧力が加えられることなどがあげられる。
そして、この反面として、日本の学校で学ぶ在日朝鮮人の多くは、自己の民族的出自について正しい知識を得る機会もなく、その結果、自己の民族を肯定的なイメージで捉えきれない状況におかれている。
このことは、在日朝鮮人であるという自己イメージを肯定的に捉えられないという点で、子供が健全に発達をするための自己肯定感を大きく阻害する可能性がある。そしてこのことは、現実に、社会の中で差別があった場合にこれと正しく向き合い、戦うことを困難にする。
朝鮮学校は、民族的出自を朝鮮半島に置く子供たちが、学校という場に集合し、自国の出自を隠すことなく学ぶ場であり、ここでは、日本の公教育で感じる様々な葛藤や、自己同一化への危機の回避が可能なのである。
したがって、朝鮮学校は、朝鮮の子供たちにとっては日本の中ではいわばシェルターとしての役割、人間形成に不可欠な自己肯定感の醸成を担っているのである。

オ 「かくれたカリキュラム」と民族的アイデンティティの確立
 (ア)顕在化されているカリキュラムの作用
また、本件学校を含め、朝鮮学校は、以下のような学校としての機能を発揮している点で、在日朝鮮人アイデンティティの確立に重要な意義を有している。まず、第一に、朝鮮学校においては、一貫した系統的なカリキュラムを通して、子どもたちが朝鮮民族の歴史、文化などの民族的な資源を学んでいけるようになっている。
朝鮮語(国語)や、体育、美術といった各教科において民族にまつわる物語や運動、踊り、美術工芸品が取り上げられている。こうした(いねば目に見える形での)学習カリキュラムが、民族的アイデンティティの獲得に資することは当然である。
言語や文化などは、これらを共有する集団における他者との関わりにおいて最も重要な意義を発揮するものである。個別指導ではなく、一定の文化を共有する学校環境における集団のなかで、生きた文化や言語を承維していくことには格別の重要性があるし、児童らの民族的アイデンティティを確立していくうえで有益であることは論を持たない。
日本人の学校においては、教育内容の大綱的事項を定める学習指導要領のもとで、日本の地理、歴史、文化が教育内容として取り上げられているのであるから、朝鮮人としての基礎的な教養、素養、学力をつける内容となっていないのである。

(イ)「かくれたカリキュラム」による作用
もっとも、社会における学校の役割は、単なる知識や技能を習得させることに尽きない。一般に、学校という装置は、その社会の普遍的価値を伝達することによって子供たちをその社会にふさわしい成員にすること(社会化)を目的としているのである。すなわち」学校という場においては、児童らに対し、集団的な枠組みのもとで、日常的、常識的視点によって、暗黙の価値基準を習得させる。教育社会学においては、一般に、こうした学校の作用については「かくれたカリキュラム」や「潜在的カリキュラム」という概念で説明され (Philip.w.jackson.”Life In Ciassrooms”、1968年)、「主として学校において、表だっては語られることなく暗黙の了解のもとで潜在的に教師から生徒へ伝達されるところの、規範、価値、信念の体系」が存するとされる。一般に、学校には、このような教師と生徒という集団の関係を通して、何が妥当な知識であり、いかなる態度・行動が望ましいかを決定し維持する機能があり、こうした学校の機能により、日本民族を含めた文化的・民族的な集団は、継続的に、社会的・文化的な再生産を行っているのである。

(ウ)朝鮮学校における「かくれたカリキュラム」の重要性
本件学校を含め、朝鮮学校においては、こうした「かくれたカリキュラム」による文化や価値観を承推していくという作用が極めて重要な意義を有している。
たとえば、あれこれの民族的な知識を得ることはもちろんであるが、朝鮮学校の生徒は、学校の教員から、何か妥当な知識なのか、どのような態度・行動が望ましいのかを、すなわち、朝鮮民族として自己を肯定的にみること、日本における朝鮮民族としてどのようにふるまうのか、どのような行動・態度をとることが望ましいのかを獲得する。
上述のとおり、朝鮮学校の教育目標は、すべての同胞子女にしっかりとした民族性を基礎とし、知・徳・体を兼ね備えたコリアンとして、在日同胞社会と民族の繁栄に貢献することのできる有能な人材を育てること、そして在日同胞の生活基盤が日本にあり、日本に定住するという特殊な現状を考慮し、日本や国際社会で生きていく上で必要とされる知識を習得させることである。かかる目的に沿った「かくれたカリキュラム」を備えた学校環境を整えて、初めて、真の意味での民族教育が可能となる。
とりわけ、朝鮮学校の教員は、朝鮮の本国から来た先生達ではなく、在日朝鮮人の教員である。在日朝鮮人のなかで育ち、在日朝鮮人をとりまく環境を熟知している。そのなかで、朝鮮学校の教員は、日本のなかで在日が日本人と対等に向き合う関係、在日朝鮮人としての誇りといったものを、自らの身体的態度を通して子ども達に伝えていくのである。また、朝鮮人の礼節や道徳などのよりよい精神文化についても、教員と子どもというヒエラルキーのなかで伝達しているのである。
さらに、民族差別にどう対処するのか、帰化や同化をどう考えるのか、本名で暮らすのか通称名で暮らすのかなどマイノリティとしての日常の生活をどのように認識し、決定・対処していくのかなどのマイノリティとしての価値観を、教師とこどもとの関係の中で学んでいくのである。

(ェ)日本の公教育における「かくれたカリキュラム」
翻って、日本の学校においては、上述のとおり、日本人としての社会化に適した「かくれたカリキュラム」が強固に存している。周囲の生徒や教師らによって意識されるかどうかは別として、今日の日本の学校環境が、在日朝鮮人児童に対し日本人への「同化」を強いる強度の心理的作用を及ぼしていることを看過してはならない。
前述のように、日本人は長年にわたり朝鮮半島を植民地支配をしてきたのであり、そのときの意識が、現在も抜きがたく存在していることは事実である。すなわち、日本社会に在日韓国・朝耕人を劣等視し、もしくは民族的差異に無関心であるという態度が日本社会に潜在しているのは事実である。そして、学校もまた、日本社会を構成する一要素であって、この日本社会における意識からは自由ではあり得ない。
これが必然的に学校内社会においても再現されて「かくれたカリキュラム」を形成することになる。ほかでもない学校という環境においてこうした差別意識が凝縮され、そして、次世代の子どもたちに承継・再生産され続けてきたという負の一面があるのである。こうした一面は、日本人児童や父母にとってはあたりまえの日本の社会意識の内面化であり、意識されることもなく、疑問にすら感じられないかもしれない。しかし、差別意識の標的となる在日朝鮮人の児童らにしてみれば、こうした無関心や差別意識が表出する度に混乱し、緊張し、動揺しているのである。多感で人格形成に重要な時期に、学習や生活の大半をこうした「場」で過ごさねばならないことは、その後の健全な自尊心の形成に深刻な影響を及ぼしうるものである。
例えば、そもそも学校のカリキュラムが「日本歴史」「日本の地理」など日本固有のものであることが当然視される環境に置かれること自体、在日朝鮮人児童らの混乱や劣等感の一要因になりうる。さらに、日本学校の教室では、あたかも全ての生徒が日本人として生きているかような指導・発話・質問が、至極当然に、絶えることなく行き交っている。教室内に外国人がいることへの無関心さは、在日朝鮮人児童らにとっては強い心理的圧力を形成する。今回においても、通称名でしか学校に通えない子が存在しているのも、こうした心理的圧力の存在の証左である。
また、日本の学校においては、多文化共生という交流の観点であっても、問題への「同情」「共感」あるいは「理解」する姿勢や語りが中心であってマジョリティとしてどのようにマイノリティと接するべきかという視点でしか捉えきれない。すなわち、自分自身(自分たち)を日本人として自己規定し、それを暗黙の前提とした「多文化共生」が語られるのである。これは、日本人の側のアイデンティティを前提としており、その意味では、朝鮮人の子供は日本人の公教育の中での居場所を見つけがたいのである。また、そのような関係性の中に置かれること自体がマジョリティとマイノリティの権力性を再生産するのである。これは、マジョリティであること故に持つ公教育の限界ともいえる。
以上のとおり、今日の日本の公教育においては、朝鮮人が自らの民族的アイデンティティを構築していくことは困難な状況にある。

カ 小括
以上のような日本特有の歴史的経緯と社会環境において、本件学校のような民族学校は、「教室を民族の環境にする」ことを実現している点で、在日朝鮮人児童らのアイデンティティ確立に望ましい貴重な学習環境を提供しているものである。朝鮮学校は、他の機関には代替できない朝鮮民族の民族的アイデンティティ回復の機能を担ってきたものであり、その民族教育事業が、日本社会において特別の役割を果たす極めて重要なものであることは明らかである。

4 本件学校における民族教育の実際
原告の設置する本件学校において実施している民族教育の内容は、以下の通りである。

(1)教育目標
本件学校の教育目標は、全ての在日同胞子女に、しっかりとした民族性を基盤とし、知・徳・体を兼ね備えたコリアンとして、在日同胞社会と民族の繁栄に貢献することのできる有能な人材に育てることにある。また、在日同胞の生活基盤が日本にあり、日本に定住するという特殊な現状を考慮し、日本や国際社会で生きていく上で必要とされる知識を習得させることも目的としている。

(2)カリキュラム
本件学校では、上記教育目標のもと、母国語をはじめ朝鮮の歴史と地理、民族の文化と伝統に関する教育に力を入れている。また、日本と世界の歴史や地理、社会などについての教育や自然科学教育にも力を入れている。
学校内部での使用言語は基本的に朝鮮語であり、授業も「日本語(日本学校でいう「国語」科目に相当する。)」を除く科目を全て朝解語で行っている。授業科目は、国語(朝鮮語)、日本語、算数、理科、社会、歴史、地理、体育、音楽、図工であり、科目および内容は日本の小学校と同様である。ただ、言語についてのみ(日本語の時間を除いて)朝鮮語を用いているという違いがある。
また、日本学校とは異なり、月に一回のみ土曜日を休日にし、それ以外の土曜日には授業と民族の風習や文化の伝承、日本学校や外国人学校との交流、ボランティア活動などの課外活動を行い、授業では学べないような体験学習の機会が設けられている。

(3)児童らの一日
児童らは、午前8時45分までに登校し、ホームルームの後、午前9時00分より1限目の授業を受ける。1眼目は9時00分から9時45分、2眼目は9時55分から10時40分、3眼目は10時55分から11時40分、4眼目は11時50分から12時35分であり、12時35分からは昼食及び昼休みとなる。
朝鮮学校では、給食制度ではなく児童らが各自お弁当を持参する。児童らは、隣の児童とおかずを交換したり、お弁当を忘れた児童とみんなが分け合ったりしながら、担任の教師とともに、教室で和気あいあいとお弁当を食べる。
午後1時15分から午後2時00分までが5眼目の授業、午後2時10分から午後2時55分までが6眼目の授業となる。
なお、各学年の授業科目および時間数は以下のとおりである(ただし、月に数回土曜日に4時間授業を行うことがあるが、下記においては便宜上土曜日の授業を除いている。)
 1年生 国語(朝鮮語、以下同じ)8時間、日本語4時間、算数4時間
     音楽・体育・図工各2時間ずつ
 2年生 国語7時間、日本語4時間、算数5時間
     音楽・体育・図工各2時間ずつ
 3年生 国語5時間、日本語4時間、算数5時間、理科3時間、社会1時間、
    音楽・体育・図工各2時間ずつ
 4年生 国語5時間、日本語4時間、算数5時間、理科3時間、社会2時間、
     音楽・体育・図工各2時間ずつ
 5年生 国語5時間、日本語4時間、算数4時間、理科3時間、社会2時間、
     地理2時間、音楽・体育・図工各2時間ずつ
 6年生 国語5時間、日本語4時間、算数4時間、理科3時間、社会2時間、
     歴史2時間、音楽・体育・図工各2時間ずつ
低学年(1〜3年生まで)は、授業が終了すると掃除をし、ホームルームの後、下校する。低学年については、学校の通学バスが児童らを自宅まで送り迎えすることとなる。
高学年(4〜6年生)は、授業後、掃除、ホームルームの後、午後4時ころよりクラブ活動をして下校することとなる。クラブとしては、サッカー部、器楽部、カヤグム部(カヤグムとは、日本の琴のような楽器)、舞踊部がある。

(4)児童らが習得すること
 前述のとおり、授業科目・授業内容も目本の小学校と同等である。たとえば、朝解語については英語のABCに相当する「ㄱㄴㄷㄹ」(「ク・ヌ・トゥ・ル」)、日本語については「あいうえお」、算数については足し算・引き算から学びはじめる。児童らは日本の小学校と同等の知識を習得していく。
ただ、民族固有の地理、歴史、言語などの教育を通じて、在日朝鮮人としての民族的アイデンティティが養われるという点で、日本の公立学校における教育と異なるのである。
児童らは、朝鮮半島や世界の歴史はもちろんのこと、児童らのルーツ(どのようにして在日朝鮮人が日本に居住することとなったか)についても学ぶこととなる。授業のみならず日常生活においても、たとえば児童から「なんで日本に住んでいるの」などと質問があった場合には、教師から個別に説明することもある。児童らは、同じルーツを持つ他の児童らと共に、集団で言語を習得し日常生活を過ごす過程で、知識としての朝鮮語や歴史等だけではなく、在日朝鮮人としての確固たるアイデンティティを形成していくのである。

 (5)近隣住民・日本社会との親交
朝鮮学校では、児童に対し民族の言語・伝統・文化やルーツを教えるのみならず、近隣住民と親交を深めること、日本人から理解を得るよう努めることの指導にも力を入れている。
教師は児童に対し、日ごろから、バザーや芸術発表会等の学校行事に近隣住民を招待するよう指導する。児童は行事がある都度、教師から「皆さんのお家の近くの日本人の方もたくさん呼びましょう。私たちが日本で生活していくには、当然、日本の方の理解や協力が不可欠です。」と指導されて成長するのである。
このような指導を受けて児童らは、日本人と仲良くすることの意味は、単に「近所付合い」という意味あいを超えて、歴史的存在である在日朝鮮人としてであるからこそ重要であるとの認識・感覚をもつこととなる。そしてこのような認識・感覚を、児童らは民族教育を通じて育むこととなる。

5 小括
以上のとおり、原告が実施する民族教育は、在日朝鮮人児童らのアイデンティティの確立のために極めて重要な事業である。憲法及び各種国際条約に照らしても、こうした事業に対して手厚い保護が施されるべきことは明らかである。下記のとおり、被告らはこのような重要性を一顧だにせず、原告の民族教育事業に対する直接的な妨害行為をして、今日に至るまで長期にわたる深刻な影響をもたらしているものである。



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