第16回口頭弁論傍聴記 1


朝鮮学校嫌がらせ裁判も1月16日に行われた口頭弁論も数えれば第16回を迎える事となった。思い起こせば、この朝鮮学校嫌がらせ裁判も長かった被告本人尋問もようやく終わり、やっと今回より原告側の証人尋問となり次回もその予定となっている。

今回、3時間程という証言時間の中で、二人の証人、最初が学校父兄であるA氏と当時学校教務主任であったB氏が、事件当時、公園方向からがなり立てる罵声を繰り返す被告らを、あの校舎の中でどのような思いで見つめていたのかを証言し、一連の事件の過程でどのように疲弊したかを語っている。
まずはその証言どおりに記述する事にした。その上で、今回証人の陳述書でさらに述べられる証言などを含め、朝鮮学校に子供を託す保護者と学校を支える教職員の思いを最後のまとめで述べようと思う。

なお、証言中、プライベートに関わる箇所は筆者責任で直している事を最初に述べておく。また、被告側総称を便宜上「在特会」としているが、これは原告・被告側がそのように呼称しているのでそのままにした。



裁判が始まると、何時ものように、追加の書面、陳述書の確認がされ、そのまま証人尋問へと流れた。まずは当時、学校に子供を通わせていた保護者父であるA氏から。


証人:学校児童父であるA氏。

原告側代理人主尋問。


◆事件当時の父兄か。
はい。

◆当時3人のお子さんを通わせていたか。
はい。

◆当時、学校で役職についていたか。
アボジ会(お父さん会)の副会長であった。

アボジ会は何をしているのか。
学校行事の設営とか後片づけとか。

◆12月4日街宣の事前予告はどのように知ったのか。
11月半ばくらいに知人から知らせをうけた。ユーチューブの予告動画では、何時かはわからないが来るという事を知った。

◆予告を見てどのように思ったのか。
内容、語り口を聞いていて気分が悪くなった。

◆学校に街宣がされるかもしれないという事をどのように思ったか。
謂れのない事で、どういった人たちが来るのかわからない不気味な気持ちで、授業や学校の運営が妨害されて無茶苦茶になるのではないかと不安をもった。

◆予告を受けて学校では協議したのか。
連絡をとりあって、漠然とだが相談しあい、南警察と弁護士に相談した。

◆具体的には。
何時、街宣が来るのかわからなかったので、仕事とかできなかった。ともかくも万が一来たならば、電話連絡をしながら、学校にすぐに直行できるように、学校関係者、父母が準備をした。

◆12月4日当日、どのように(被告らが来たのを)知ったのか。
教員から電話があり知った。

◆教員から電話があった時に何か(電話の向こうで)何か聞こえたか。
拡声器からか?非常に大きな声でがなり立てる声が聞こえた。

◆声の内容はわかったのか。
内容はわからない。

◆その声を聞いて、貴方はどのように感じたか。
何か物々しい事が起こっていると、非常に不安な気持ちになった。

◆学校にはどのように向かったのか。
連絡を受け直ぐに自転車で向かった。

◆職場から近いのか。
はい。

◆学校に向かう途中、誰かに連絡したか。
電話受け、緊張もあり何も考えられなかったのだが、ふと我に返り、弁護士の先生に、来てもらえるかどうか別として、弁護士の先生に連絡をした。

◆弁護士に連絡して学校に着くまでどのような事を考えていたのか。
(被告らの)街宣活動がどのような政治的態度で行われているのかは別として、同じ人間として話し合えばわかるのではと考えていた。

◆学校に到着したのは何時頃だったのか。
1時半頃だったと思う。

◆街宣がはじまって30分頃という事か。
そうだ。

◆学校に到着した時の様子について教えてほしい。
学校には北門と南門がある。私は北門に到着した。門で女性の先生が泣いておられる姿を見て、これはただ事ではないと思った。

◆それでどのように行動したのか。
一目散に、(街宣が行われていた)南門に向かった。

◆その時に教職員の方らは何人くらいいたのか。
だいたい10数名だったと思う。

◆貴方が門の内側にいた時に在特会(便宜上、被告ら総称として)と何か接触があったのか。
いえ、私はしていません。

◆何か彼らの言った事を覚えているか。
一番記憶に残っているのは、「お前ら日本に住ませてやってんねんぞ」「道の端を歩いとけ」「キムチくさいねん」「お前らウンコ食っとけ」という事を言われびっくりした。

◆そのような発言を聞いてどう感じたか。
そのような言葉は、私が幼少の時期に、小学校の時同級生から聞いたような、典型的な蔑称なり、差別用語が、この21世紀になっても、まだ私の目の前で発せられるという事について、驚きで言葉が出なかった。

◆彼らの発言に対して何か言い返したりしたか。
してない。今、言ったように非常にショックで、差別発言に心の中がポカーンとしていた。もう一つは子供たちが授業を行っていたので、彼らの挑発には乗らないとあらかじめ学校と相談していたので、一切対応していない。

◆街宣が終わるまで、ずっと南門にいたのか。
違う。弁護士が駆けつけて下さって、在特会と交渉しようとする段になってから、校門の外に出て公園に入った。

◆公園に入って在特会とは直接何か話をしたのか。
私は、貴方たち行政とか警察とかの委託を受けず、ゴールポストをどかしたり、口汚く罵るのは威力業務罪、侮辱罪にあたると言った覚えがある。

◆それに対して彼らの反応はどのようなものだったのか。
数人が僕に対して「アホアホアホ」と言った。

◆そのような反応受けてどのように思ったのか。
一定の政治的な大義をもってきたのかわからないが、まったく話し合いにならない。彼らがなんらまともな言葉がない、侮蔑的なこちらを蔑む態度で一方的行動していたと思う。だから何の会話も成り立たなかった。

◆この街宣をどのように感じたのか。
僕が小学校や中学校の時に経験したような、朝鮮人に対する差別ないし差別用語が、この時、30年以上たってやられた。非常にショックを受けたし、30年を経ても差別的な内容の行動があったという事に非常にショックを受けた。これをどうして受け止めるか、言葉がなかった。

◆この街宣の終わった後、現場に残った保護者の方とか、教職員の方らはすぐに解散したのか。
彼らが解散した後もまだいたと思う。

◆まだいたというのは、今後の事を話し合ったのか。
いえ、そういう事ではなかったと思う。普段は皆さん、和気あいあいと学校の中で、学校の事とか子供の事とかを話す雰囲気があるが、その時は、空虚なまったくの沈黙があった。

◆その沈黙の後で解散するきっかけは。
恐らく、私もそうだが、彼らが街宣行動をおこなった事について、父母は憤りを感じていると思うが、何が問題なのか言葉にできなかったと思う。このまま家に帰るのはよくないなと、弁護士と私のほうで、彼らのやった事は侮辱罪であり威力業務妨害罪で不法行為に当たるという事を説明して、自分もそうだが父母の精神的な安定を得るために説明をして解散をした。

◆この街宣の後、もうないだろうと考えたか。
いえ、また来るのではないかと、内心、非常に恐怖心を抱いていた。

◆1月14日の街宣について聞く。これはどのように知ったのか。
12月4日以後、在特会の動向が気になっていた。何故ならまた来るのではないかという恐怖心を常にもっていた。そういった事から、在特会のHPを何時も見る癖がついていた。そこで、年始にHPを見ていたら1月14日に街宣をするという案内があった。

◆その街宣予告を見てどう思ったか。
また来るのかという事と、そして恐怖心をもった。

◆街宣予告を見て何か行動したか。
学校教員にすぐに連絡した。

◆その時に学校は何か協議をしたのか。
1月14日という事で早急に対応せねばならず、1月4日に父母の方々が集まって、1月14日の授業の開催ないし休校について話し合った。

◆その日にどのような話になったのか。
子供たちに被害が及ばないよう休校にしたほうがいいという意見もあった。でもカリキュラム運営に支障をきたすと。そして民族教育を行われてきた事を、勘違いの大義をもとになし崩しにするのは避けようと、なんらかの形で授業を行おうと決めた。

◆話し合いの結果、課外授業となったが、そのような事になりどう思ったか。
もちろん通常授業を行えたらいいと思うが、子供たちには在特会の街宣の姿や、口汚い罵声を聞かせたくない思いから、課外授業にした学校の判断は良かったと考えている。

◆1月14日当日、貴方はどのように行動したか。
朝の9時から夕方まで学校にいた。

◆その日は何故学校にいたのか。
子供たちが課外授業のために問題なくバスに乗るのを見守る事と、バスに乗って学校に帰ってくるのに、在特会のデモの様子を見せない、罵声などを聞かせない事を管理するため。

◆子供たちが帰ってくる時刻は。
4時半だったと思う。

在特会の解散時刻は4時くらいだったと思うが、予定よりも解散時刻が迫っている、その事態にどのようにしたのか。
非常に混乱はしたが、子供たちに街宣の様子、罵声を聞かせない思いで、なんとかバスが到着する時刻を遅らせるように連携をとった。

◆3月28日の街宣についてお尋ねする。3月28日は仮処分命令が出ていた。
はい。

◆仮処分命令が出たので街宣が予定通り行われると思ったか。
いえ、思わなかった。

◆街宣が行われた事をどう思ったのか。
まさか、仮処分命令が出ているにもかかわらず街宣が学校付近で行われるとは思わなかった。

◆3月28日、学校は春休みだったはずで、特に影響はなかったのではないか。
そんな事はない。当時も学校の先生方は通常の職務で、4月1日入学式新学期を迎えるのでむしろ忙しかった時期だ。また、オモニ会(母親会)もそのための準備をしていた。そういった事で生徒は少なかったが、教員、父母のやる事はたくさんあり支障をきたした。

◆3月28日当日、貴方はどのように行動したか。
10時頃から学校に到着して、南門で待機していた。

◆当日は一日中待機していたのか。
朝の10時からだいたい夜の7時までいた。

◆待機していた時どのようにしていたのか。
これで3回目になり、非常に憤り、また来るのかとしんどい気持ちになった。

◆12月4日の後、父兄保護者からどのような意見があったのか。
なによりも子供たちが、なにか嫌がらせを受けるのではないかとか、また街宣が行われて、物理的精神的な影響を及ぼすのではないかという心配と、何らかの仕返しがされるのではないかという不安な気持ちが、お父さんお母さんの中には強かったと思う。

◆そのような不安から学校では見守りを行ったと。
はい。

◆それは学校の先生と保護者でか。
そうだ。

◆12月4日街宣以降、貴方がアボジ会(父親会)の副会長としてやった事は。
刑事告訴ための弁護団会議と、告訴ために南警察に一緒にいった。また、仮処分命令のための弁護団会議への参加、民事裁判の弁護団会議に参加した。

◆貴方の仕事と平行してどうだったか。
私の本来の仕事と並んで、朝鮮学校というのは、主観的な認識かもしれないが、充分な国からの補助も受けられていない。よって保護者がたくさんいろんな事をしなければならない。そのため私もいろんな事を考えていたが、それがまったくできなくなった。また家にいる時間がだいぶ削がれた。

◆お子さんたちへの影響は。今回の街宣をお子さんは知っていたか。
知っていた。

◆お子さん方から何か反応があったか。
12月4日後、「あの人たち、また来るの」とポツンと聞かれた。

◆それはどういう気持ちで言ったと思うか。
子供たちなりに、不安と恐怖があったと思う。私自身がまた来るかどうかわからなかったので、何も答えられなかった。

◆他のお子さんは。
どういう意味でいったかわからないが「アッパ(お父さん)がんばりや」と言った。

◆お子さんたちは街宣の影響を受けていると感じたか。
子供たちは非常なショックを受けたと思うが、大半の子供たちは先生方の献身的なケアによって表面上、平静を維持していた。

◆この街宣を受けて子供たちの将来に何かあると思うか。
在特会の人らは、いかなる政治的態度でこの問題をどう思うのかわからない。それは彼らにとっては一回きりだ。しかし私個人としては、これはずっと引きずる問題だと考える。それは、子供たちが大きくなって結婚し、子をもうけ、その子供の学校を選択するさいに、あの時の街宣の思い、朝鮮学校に入れる事は危ない事だと消極的に選択するかもしれない危惧がある。だから私にとってはずっと将来も引きずる問題だと考えている。

◆貴方は事件後もお子さんを朝鮮学校に送っているが、そこで悩んだりするのか。
私は、学校の先生方が一生懸命やって下さるので、そういった不安はない。

◆貴方がお子さんを朝鮮学校に通わせる訳をきく。貴方自身が朝鮮学校に通われたのか。
私はない。日本の学校だ。

◆日本の学校では本名だったのか。
いえ、通名だった。

◆同級生は貴方を日本人だと思っていたのか。
何故かはわからないが、周りの同級生は私が朝鮮人だというのは知っていた。

◆周りが貴方を朝鮮人だと知っていたのをどういうふうに思ったのか。
今でも覚えているのは、小学校2年の時に学校の廊下で、5,6人に囲まれて「お前、朝鮮やろ、チョンコやろ」と言われ、「お前らチョンコは竹を食っているんやろ」言われた。

◆「チョンコ」というのは朝鮮人の蔑称という事か。
典型的な蔑称だと思う。

◆「竹を食っているんやろ」とは。
今はキムチを皆が食べるけど、当時はほとんど食べなかったと思う。だから「竹」というのは人間が食べないものを朝鮮人が食べているという意味で「竹を食っている」と言ったと思う。

◆そのような経験をした貴方は、朝鮮人と胸を張って言えるものだったのか。
いえ、とてもそう言えない。

◆すると、朝鮮人である事に貴方はどのように思ったのか。
正直、小学校、中学校、高校と、何故、自分が日本人ではなくて朝鮮人なのだろう、何故、他の人と違うのだろう。また、ことある事に差別的な事を言われ、それが原因で何度も喧嘩しなければいけないんだろという経験から、非常に消極的にしか考えられなかった。

◆それなら国籍を変えて日本人として生きていく道もあったのではないか。
いえ、差別的な発言を受ける事によって、逆に言う側の人たちをよく思う事ができなかったので、国籍を変えるという気持ちになれなかった。

◆すると、日本人にはなれないけど、朝鮮人としても消極的に生きてきたという事か。
今は違う。

◆どうして変わったのか。
高校の時からそのように考えるのが非常に気持ちの中で閉塞感を感じた。自分は何も悪い事はしてないのに何故隠さなければいけないのか。何故バカにされなければいけないのと思いながら、大学に入る事ができたなら名前を隠すとか自分のルーツを隠すとかは辞めて生きようと考えた。

◆その経験が、ご自身のお子さんを朝鮮学校に入学させた事と関係があるのか。
はい。私自身の経験から、消極的に自分のルーツとか歴史を考えるのは子供の成長によくないと思った。人は生まれてくる過程があって、そこで自分が何者であるかを確認しながら子供たちは生きていくと思う。子供たちには例え日本にいながらも、朝鮮人として自分のおじいさんおばあちゃんがおり、生まれ育ってきたというのを知ってほしい。そしてそれを普通に考えてくれる環境を作りたいと思い、朝鮮学校に入れた。

朝鮮学校に通わせてみてどうだったか。
私の幼少時期と比較して、自分たちの生まれてきた環境、歴史、ルーツ、そういったものを普通に受け止める姿を見て、私自身の成長時期と比べてかなり異なり前向きに捉えている。

◆この日本に朝鮮学校が存在する意義についてどう考えるのか。
私自身、これからも日本で生きていくと思うが、先ほどもいったように、人間として生まれてきた過程、歴史があると思う。私の父親は済州島からきたけれども、やはり朝鮮のルーツ、歴史をもちながら、私も生まれてきた。私の子供たちも前向きに、そして普通に受け止められる、精神的に享受できる事を子供に対して与えたい。それを親ともども実現できるのが朝鮮学校であると考えている。

◆そのような朝鮮学校に、今回のような街宣が行われた事についてどう思うか。
在特会の人々も、政治的な大義があってこのような行動をしたかわからないが、私たちにとってはまったくの言いがかりで許せない。


以上、原告側尋問終了。