被告側第6準備書面 上

以下に記すものは被告側第6準備書面であるが、これは原告の第一準備書面に反論としたもので、原告第一準備書面の項目をそのまま引用した構成となっている。よって読まれる方は原告側の第一準備書面と併せて読まれる事をお勧めする。(対応個所は下記リンクの学校側第一準備書面
なお、抜かれた項目はこの被告側第6書面にも書かれていないのと、明らかな文字間違いは親切にも修正したがそれ以外は原文ママとなっている。
予定として2回に分けての掲載であるのと、筆者の論評はこの準備書面掲載後のエントリーで記していきたい。さらにこの在特会の言い訳に呆れながらも必死こいて掲載にこぎつたのだから在特会の諸氏は私に感謝してほしい。君らの言い分だよ。ったく、「民主主義の根幹は基本情報を公正に明らかに」との信念をもつ自分にうっとりするわ。


学校側第一順書面 1
http://d.hatena.ne.jp/arama000/20110519/1305807315
学校側第一順書面 2
http://d.hatena.ne.jp/arama000/20110520/1305851566
学校側第一順書面 3
http://d.hatena.ne.jp/arama000/20110521/1305938151




被告側第6準備書面


第1 原告第1準備書面に対する認否・反論
1 第2「民族教育(実施)権の意義について)

(1)同1(民族教育権、民族教育真施権とは)について
そこで述べられている民族教育権及び民族教育実施権なるものにかかる原告の定義については争わない。

(2)同2(l)憲法上の保障)について
原告は本件で問題となっている権利 (憲法26条によって保障されるという)は、国に施策を求める社会権的側面ではなく、第三者の優害行為から、教育事業を妨害されないという自由権的側面であるという。
用語上の問題ではあるが、 憲法が保障する人権の「自由権的側面」は「社会機的側面」と 同じく国家権力との関際において、 その優害行為を問題にするものである。 社会的確力を持たない私人である第三者からの侵害に関する問題は、私人間効力として議論されてきた。
なお、三菱樹脂事件に係る最高裁昭和48年12月12日判決は「人権規定は私人間相互には原則として直接適用されることはない」としている。

(3)同2(2)(国際人権上の保障)について
ア 教育に対する権利としての保障について
世界人権富言26条1項、社会権規約13条1項及び子どもの権利条約28条1項に、所論の記述があることは認める。また、教育に関する権利が「人間の尊厳」の確立に不可欠なものであり、種々の人権の中でも最も基礎的かつ重要な権利の一つと位置づけられているという主張には同意する。
社会権規約13条3項には、確かに、父母等の権利として児童の「宗教的及び道徳的教育」を確保する自由を尊重することが締結国の義務として規定されているが、 そこで確保が約束されている教育の内容に政治的独裁者に対する個人崇拝イデオロギーを刷り込むことは含まれていない。金日成金正日父子による独裁政治が、世界人権宣言ないし子どもの権利条約の理念を蹂躙していることは周知の事実である。
イ  マイナリティの権利としての民族教育について
少数民族ないしマイナリティが母国語教育・民族教育を受けることの人権的重要性については全く同意する。しかし、そのことは具体的な民族教育等のあり方について無批判かつ無限定に受け入れなければならないというものではない。
例えば、 フランスや ドイツをはじめ大量のイスラム系移民を労働力として受け入れた西欧諸国では、先住者との文化的摩擦や安全保障上の問題から、「児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を青成することjに対する指向が制限されている。公認宗教制をとるドイツ等では公認宗教 (先住国民の伝統宗教等)から外れたエスニック宗教等の活動は多くの制約を受けており、伝統的に同化政策をとつてきたフランスにおいても、近時、公立学校を含む公共の場でのスカーフ着用(イスラム女性の象徴)を禁じる法律が制定されたことはその象徴である。
我が国においても、公の支配に属しない教育事業に対する公金の支出及び公有財産の提供を禁じる憲法89条が本件学校における民族教育実施権の社会権的側面における規範的障害になっている。

(4) 同3(1)(民族教育の重要性)について
ア  日本の学校における民族教育事業について
本の学校において民族教育がなされており、「圧倒的多数」の日本人が民族教育を通じて日本人としてのアイデンティティを確立していくのであるという主張には同意する.そして圧倒的多数の日本人は日本人であることを疑わず、何の疑間も持たずに暮らしていることも事実である。幸いなる故。
残念ながら、被告らは、現在の我が国における教育において民族固有の神話や宗教的文化といったものに係る戦後の民族教育の薄弱さに対し大いに疑問をもつている。
イ  在外教育施設による日本の民族教育事業について
日本の主権の及ばない外国においても、 日本人の子どもたちが、 日本国民にふさわしい教育を受けやすくするための民族教常事業が広く行われていることは認める。
原告が主張するように、海外における日本人教育の教育過程は、原則的に国内の学習指導要領等の定めるところによるものとされ、文科省ホームページ等で広く公開されている。教育過程及び教育内容の公開は、海外における民族教育によって、当該地域における誤解に基づく摩擦の発生を避け、当該地域の住民らの理解を得て、円滑になされるようにするうえで極めて重要だからである。このことは朝鮮学校における教育内容がベールに包まれたまま公開されていないことを考えるうえで重要である。
ウ  民族教育事業の意義について
民族教育事業によって 「日本人を育てるJあるいは「朝鮮人を育てる」ということは、偏狭な凝り固まったナショナリズムを培養するということと決してコールではない、 といぅ主要については強い願望を込めて同意する。
工  日本社会における在日外国人による民族教育事業の意義について
マイナリティによる民族教育事業が、当該地域の住民にとっても、豊かな国際感覚の醸成あるいは自己の日本人としてのアイデンティティヘの希求といったものをもたらす意義を有している。
その意味で、京都市教育委員会が開催している「民族の文化にふれる集い」の趣旨に特段の異議はない。
環実の朝鮮学校がそのようなものであってはしいという願望は被告らも共有している。 しかし、現実の朝鮮学校において、当該地域の日本人にとって有意義な作用が営まれているかどうかは別のことである。

(5)同3(3)(在日朝鮮人における特別の重要性)について
ア  朝鮮半島における戦前の皇民化政策について
1910年に日韓併合条約が締結され、以後、日本は朝鮮機督府を通じて朝鮮を統治し、 1911年8月には、朝鮮人の教育に関する朝鮮教育令を出していること、 そこで朝鮮語および漢文の授業以外は日本語による教育がなされたことも事実である。
しかし、 日韓併合までは、朝鮮半島には庶民が享受できる公教育がなかつたことを忘れてはならない。 日本政府は公立学校を建設し、教師を派遣し、教科を整えたが、そこで日本語が公用語として使用されたのはある意味当然である。 そのことが朝鮮民族から朝鮮語を奪うこととなったという主張については争う。それまで大韓帝国において殆ど使われていなかったハングルを公教育で教えるようになり、その普及に貢献した事業を指摘しておきたい。
イ  第二次朝鮮教育令について
第二次朝鮮教育令における普通教育に関する区別は、「国悟ヲ常用スル者」と「国語フ常用セする者」の区別であり、 日本人と朝鮮人を区別し、差別するものではない。 日本語の習得を目的とする以上、上記区別はやむをえないものだったと思われる。
ウ  第三次朝鮮教育令について
第三次朝鮮教育令により、朝鮮語の授業は廃止されたという主張については争う。 引用された法令の内容からは朝鮮語の授業の廃止という内容を直ちに導くことはできないからである。
工  創始改名について
創氏改名」は、新たに日本式の「氏」(ファミリーネーム)を創設することであり、従来の「姓」 (クランネーム)を廃止するものではない。クランネームとファミリーネームは併存するものであり、氏の創設は姓の変更を伴うものではない(日本人はクランネームを持たないため、姓と氏を同視する誤解に陥っているものが少なくない).更に、氏は日本式とするかどうかは任意であり、 日本式を届出しないものは、家長の姓をもって氏となされた。
原告は、「創氏改名Jと「国語の常用」は、日本の植民地に対する「皇民化政策Jの大きな柱となって朝鮮民族の固有の文化を徹底して破壊する過程であつたと主張するが、「日本語の公用語化」は朝鮮語の廃止ではなく、「創氏改名 」が姓の廃止ではなく、日本風の氏が強制されたわけでもないことを働案すれば、 朝鮮文化株殺といった目的を担うものであったとは言えない。
オ  日本における在日人口の形成について
日本統治の前後では、 朝鮮半島の人口は大きく増大していることからみても、 国民の教育と殖産興業を図った日本統治が過酷であったという主張は一方的であり、 日本統治の過酷さが在日一世の日ホヘの渡航理由だと決めつける主張については疑間がある。
土地調査事業は、 当時まだ近代国家体制が確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭であり両班の暴力による土地収奪などは日常茶飯事であり、農民の間でも土地の所有をめぐる抗争が絶えなかったことから、とられた政策である。近代的な私的所有を保障するうえで避けられない政策だったともいえる。 '
もっとも政策遂行過程で不利益な扱いを受けることになったものも相当数いたことは想像に難くないが、 それをもつて土地岡査事業そのものを日本による過酷な続治の彙徴として取り上げるのは正しくない。
当時の日本が国内においな労働力を必要としており、募集に応した朝鮮人が今日の在日韓国。朝鮮人の形成の端緒となったことは認める。
国民徴用令に関する主張については、留保する。なお、外務省は、朝鮮への国民徹用令の適用による朝鮮人翻 は1944年9月から下関−釜山間の運行が止まる1945年3月までの7カ月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に止まった者は、1959年の時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している。
力  皇民化の過程
朝鮮人の子供は、日本の植民地政策、皇民化政策により自己の民族性を否定され続けてきたとの主張については争う。
朝鮮人であっても、 日本国民として官公庁に勤務した者がおり、高等文官試験の受験資格も与えられており、キャリア官僚や裁判官になつた例もある。 民国の団長となった権逸は元裁湘官であり、日本軍の将軍となった洪思翔中将や李根中将のように朝鮮名のままで日本軍に在職していたという例もある (下線部は当て宇)。
キ  戦後の朝鮮学校をめぐる状況
戦後の朝鮮学校をめぐる状況に関する原告の主張については概ね認める
戦後、朝鮮総連が取り組んできた朝鮮学校設立の経緯とその教育内容の変質については、朴斗鎮著「朝鮮総連―その虚像と実像J(乙24)金費汀著「朝鮮総連」(乙25)にあるとおりである。
ク  日本における朝鮮学校の意義について
日本がその朝鮮半島統治において朝鮮民族の民族性そのものを抹殺しようとしてきた経緯があるという主張は留保する。
朝鮮人に対する差別意識については、現在の日本では、韓流ドラマやK 一POPの流行に見られるように、かつて日本人が持っていた理不尽な差別意識のほとんどは消失している。
本件事件における被告らの動機は、 単純な差別意識に基づくものではなく、逆に日本人が差別を受けており、原告ら在日朝鮮人らは、不法な特権を享受しているという被害者意識であり、法の平等を求める意思である。
ケ  在日朝鮮人アイデンティティの危機について
そこで述べられている体験談や評価については諄否の限りではないが、深く胸にとどめておきたい。
但し、日本は憲法1条が宣言しているように日本国民を主権者とし、歴史的に権威の源泉となってきた天皇を日本国及び国民統合の象徴とする国民国家である。天皇の存在及び天皇が象徴している国語、神話、歴史及び文化は、 多くの日本人の民族的アイデンティティの重要な部分を担っていることを忘れてはならない。 それは朝鮮人に対する差別意識とは全く別場である。
コ  「隠れたカリキュラム」と民族的アイデンティティの確立について
在日コリアンの民族的アイデンティティを確立するうえで民族教育が重要であることは認める。
しかし、原告が運営する朝鮮学校においてどのような教育がなされているかについては公開されていないが、 いまでも金日成金正日父子を無批判に礼賛する思想教育がなされているとの信頼に足る指摘がある。 それは真の民族教育ではなく、洗脳教育に過ぎないという批判が在日社会からあがっている(乙24、 25).
本の学校において「かくれたカリキュラム」としての社会常識、民族的価値観、国民道徳、武士道、伝統儀礼、日本語のパリエィションといつたものが伝えられてきたのは事実である。 そして民族的アイデンティティを確立できない児童は、 精神的脆弱さを抱えることになることも事実である。むしろ、学校における「かくれたカリキユラム」の機能が低下しているのではないかという懸念ないし危機感こそが、戦後教育を見直し、これを改革すべきだとする主張を支えているという見方もある。
原告が強調する「多文化共生Jの理念の達成は、 日本人の側のアイデンティティを希薄化することではなく、これを確立することによって逮成されるべきものである。
サ  小活について
本件学校のような民族学校が「教室を民族の環境にする」ことを通じて、在日朝鮮人児童らのアイデンティティ回復の機能を担ってきたという側面があることは否定しない。
他方、残念ながら、北朝鮮の首慎・金正日に忠誠を誓い、拉致事件等の犯罪に関与してきた朝鮮総連との密接な関係及び全日成・金正日に対する崇拝を強いる洗脳教育は、逆に、地域住民を含む日本人との「多文化共生」を妨げる作用を果たしている。

(6)同4(本件学校における民族教育の実際)
ア  (1)教育目標について
本件学校の「本来」の教育目標が、全ての在日同胞子女に、しっかりとした民族性を基盤とし、知・徳・体を兼ね備えたコリアンとして、在日同飽社会と民族の繁栄に貫献することのできる有能な人材に育てること、 並びに、 日本や国際社会で生きていく上で必要とされる知識を習得させることにあることは認める。
しかし、1967年の朝鮮絡連第8回大会以降、朝鮮総連コミュニティに「金日成絶対化」の波が押し寄せ、朝鮮学校思想改造の場として重要視され、教科書はすべて書き換えられて金日成礼賛―色にされた(乙24:「朝鮮総連―その虚像と実像J p93∼ 」
イ (2)カリキュラムについて
各科目のカリキュラムについては争わない。
しかし、北朝鮮の「首領独裁制」が進展する過程で、教科書は書き換えられて金日成礼賛一色となり、すべての教科は金日成に関する内容で理めつくされた。例えば、英語の教科書は英訳された「金日成伝」であり、算数や数学の例題は金日成の物語から作り出され、国語はそのまま金日成にまつわる話を教科書とした(乙24: 「その虚像と実像」p99)。 その本質的実態はいまも変わっていないと思われる。
ウ (3)児童らの一日について
不知。
工 (4)児童らが習得することについて
本件学校の児童らが朝鮮語を習得し、朝鮮人としての民族的アイデンティティを養い、 日本に居住することになつた歴史といったものを習得していることは認める。 しかし、原告の準備書面をみる限り、 日本統治の実際、在日朝鮮人の日本居住の由縁等につき、 事実と異なる偏った政治的主張が植えつけられているのではないかとの懸念がある.
オ (5)近隣住民・日本社会との親交について
本件学校は、勧進橋公園にサッカーゴール等を設置して不法占拠し、近隣住民が利用するのを妨げきた(乙23)。被告西村斉らは、住民の苦情を受けてその事実を知り、市役所でその違法を確認し、抗議活動に立ち上ったのである。
本件学校の機員や児童が近隣住民との間で単なる 「近所付合い」を超えた親交や交流を重ねてきたというのは俄かに信じ難い。

(7)同5(小活)
原告は、自らが実施する民族教育事業を礼賛し、憲法上、国際法上、手厚く保護されるべきであるとする。
しかし、その教育内容を公開し、金日成金正日礼賛を改め、朝鮮総連との関係を整理しないままでは、地域社会の理解も得られないし、 日本政府からの手厚い保護を受ける資格はないと言わざるをえない。
現在、朝鮮学校は、高校無償化の対象から外されているが、その原因が、核実験やミサイル実験を繰り返し、昨年11月には韓国の延坪島を砲撃して無事の住民を殺機し、極東の軍率的緊張を高めている北朝鮮金正日政権に忠誠を誓っている朝鮮総連との密接な関係にあることは周知の事実である。



2 第2(原告の損害―有形損害―)について
(1)同1(1,(具体的な金餞支出)について
ア 平成21年12月4日の街宣活動に関するもの
① スピーカー
原告所有のスピーカー及びコントロールバネルの配線コードをニッパで切断したのは被告川東である。
被告川東による器物損壊の行為は、配線コードをニッパで切断しただけであり、スピーカー及びコントロールパネルを損傷させたわけではない。
修理費用が47,040円というのは通大な請求である。
因みに被告川東に係る刑事事件では、器物損壊罪に係る犯罪事実として「損害額約1540円相当Jと事実認定されている(乙 4:判決書p3)。
② ピラ配布費用
平成21年12月22日の京都会館での察急集会での広告ピラの配布は、原告自身の政治活動であり、平成21年12月4日の威力業務妨害行為との間に因果関係はない。
原告は当該ピラを証拠提出し、その内容を明らかにすべきでぁる。
イ 平成22年1月14日の街宣活動に関するもの
① 外授業費
原告は1月 14日の街宜予告文の掲載を受け、通常の予定を変更して課外授業及び課外保音を行ったとするが、 もともと通年のカリキュラムにおいて国立民族学博物館の課外授業は組み込まれていたと思われる。 また、実際に要した費用は児童の保護者が負担したものと思われる。
したがって、 これに要した費用をもって損害とすることはできない。
② 観光バス代等
国立民族学博物館ないし琵琶湖博物館の課外授業は、もともと通年のカリキュラムに組み込まれていたと思われる。また、実際に要した費用は、課外授業に参加した児童の保護者が負担したものと思われる。
よつて、 観光バス代等によって原告の運営経費が嵩んだとはいえない。
③ お知らせ丈書配布費用
否認ないし争う。

(2)同(2)(対応に要した時間・労力等)について
ア 平成21年12月4日の街宣活動に関するもの
① 宣活動の前
平成21年11月19日、インターネット上に、本件学校に対する街宣を予告する文章を掲載したのは被告西村斉である。 それは原告による勧雌橋児童公国におけるサッカーゴール等の設置が都市公演法違反の不法行為であることを指摘し、 設置物の速やかな撤去を求め、原告においてはこれを撤去せず、 不法占拠の違法を継続するのであれば抗議行動を行うというものであった。
予告掲示を見た原告が本来なすべきことは、 警備要請ではなく、設置物の撤去によって違法状態を解消することであつたはずである。
② 街菫活動当日
被告らの街宣活動は、約46分間で終了し、その場で散会している(乙4:判決書).夜中の警備の必要云々は過剰な主張である。
③街宣活動の後
前述のように、本件抗議行動は、原告による勧進橋公国の不法占拠を端緒とするものである。原告は警備態勢を整備したり、南署への警備要請をするのではなく、速やかにサッカーゴール等の不法占拠物を撤去すべきであった。
イ 平成22年1月14日の街宣活動に関するもの
① 街宜活動の前
被告西村斉は、平成22年1月7日、同年1月14日の街宣を予告した児童らへの悪影響を懸念したのであれば、課外授業等を行うのではなく、街宣予告日までに、不法占拠を解消すべきであつた。
② 街宣活動当日
散職員らの体み時間が短縮され、勤務時間が延長されたとする点については不知。原告の教議員らに超過勤務手当てはなく、超過勤務をもつて原告の損害とすることはできない。 そもそもサッカーゴール等を搬去して遠法状態を解消しておれば、 勤務時間が延長等されることもなかった。
ウ 平成22年3月28日の街宣活動に関するもの
① 街宣活動の前
平成22年3月16日、被告画村斉は、インターネット上に3月28曰の抗議活動に関する予告を行ったのは事実である。 日曜日であり、場所も本件学校前ではなく、原告の業務に支障を生じるものではなかつた。
② 街宣活動当日
当日は日曜日であり、抗議活動の場所も本件学校前ではなく、本件学校の業務に支障を生じるものではない。
工 その他
本件学校の教職員が警察への対応等を余儀なくされたのは、原告が、あくまで勧進橋児童公国の不法占拠を継続しようと考えたからである。早々に撤去しておれば、教職員に負担をかけることはなかった。
オ 小活
(3)同2(財産的損害ではあるが金額に評価しつくせないもの)について
澤井教授の主張 「原告が財産的損害を被ったことは確実であるが、 その額を証拠で証明することが困難である場合、無形損害として評価されなければならない」については争わないが、この理論は、立証された財産的損害 (損害項目)の金銭評価の局面で機能するものである。
当該理論を発動させるためには、 被ったことが確実である財産的損害の事実的基盤(被害項目)を主張する必要がある。然るに、原告は、これまで反論を加えてきた具体的な損害項目の外にも有形的財産損害が生じていることについては、 何らの主張もできていない。
原告が主義する財産的損害の事実的基盤は上述のように極めて脆弱であり、敢えて無形損害として評価せねばならない「財産的損害」は存在しないというべきである。